●2052.04
「酷い有様だ」
 溜息を漏らした天使対策特別室K.Y.R.I.E.の室長――王条 かぐらのそんな言葉には酷い疲労と実感が篭っていた。
マシロ市内は混乱と困惑に満ちているよ。
 現代の奇跡に沸く余裕もありゃあしない。
 蜂の巣を突いたような大騒ぎってのはこういう事で……
 狂喜する人もいれば、血眼になって家族や恋人を探す人もいる。
 とうの昔にいなくなったと思っていた人達が一斉に現れたんだから当然だけどね」
 現代に残された大いなる希望の一角――
 2027年より大変な紆余曲折と大いなる苦労を重ねて建造された人造の楽園は二十年を超える歴史の中でも最大と呼ぶべき激震に見舞われていた。
 それが喜ばしい事か、深刻な事態への呼び水と考えるかは判断の難しい部分ではあるが、何れにせよ大騒ぎになっているのだけは確かである。
「事情は分からない。状況も正確に把握出来ているとは言い難い。
 既にK.Y.R.I.E.でもヒアリングと調査を進めているけど――
 かぐらの言葉に執務机に向かったままのマシロ市長――涼介・マクスウェルが眼鏡のつるを持ち上げた。
 誰も狼狽した姿等見た事のない怜悧な男はかぐらの報告を黙って聞いたままである。
「唯、結論としてモノを言うならば、こういう事だ。
 証言や状況を鑑みるに、202443
 ……当を得ない報告ですまないけど。実際問題、そうとしか言いようがないんだ。
 彼等の知己の一部がマシロ市に存命だったのは幸運だった。
 そうして照会した結果、彼等が偽物・・である可能性は殆どないって事が分かったよ。
 彼等は正真正銘大破局ドゥームス・デイ当初に惨事に巻き込まれて行方不明となっていたと見做されていた人達の一部なんだ」
 発端は単に人が現れた事・・・・・・・・である。言ってしまえば僅かそれだけの事である。
 しかしながらかぐらの言う通り、それが過去からの旅人達であるのなら話は全く別になろう。
 三十年近くも前に人類が遭遇した最悪の黄昏は夥しい犠牲を生じたが、当然ながらあの地獄の風景で全ての人々の行く末が明らかになった訳ではない。激動の中で正確に死亡を確認出来たのはむしろ幸福な人物・・・・・であり、犠牲とされた人々の大多数は誰に知られる事も無く、唯不確かな数字として語られる他は無かったからだ。
「そろそろ事件に関する君の見解が知りたいな、涼介君。
 それとも優秀な市長でもこんなオカルトには通じていないかな?
 ま、悪魔オルフェウスの君がオカルト嫌いなら、誰に尋ねるかという話になるんだけどね?」
 幾分か焦れたのか薄い唇を端を僅かに持ち上げたかぐらの口調が皮肉気な色を帯びていた。
「性急ですね、かぐらさんは」
 腕時計をちらりと視線をやった涼介は時計の短針が四時を指し示している事を確認して肩を竦めた。

 尤も、実際の所、神秘の理由なんてものはどうでも宜しい。
 二十八年前、世界が滅びた理由なんて――人類の誰も持っていないのですから同じ事です」
「随分な物言いだね。世界の終わりに颯爽と現れた救世主様・・・・が」
「何とでも。まぁ、せっかちなかぐらさんの為に少々話をするのならば……
 そうですね。私の見解も貴女と同じです。
 貴女の裏取りが間違っていないのなら、今日マシロ市にお越し下さった皆様は2024であるに間違いはないでしょう。
 彼等は何らかの事情に巻き込まれ、ドゥームスデイの初動で時間的漂流状態を生じた。
 オルフェウスの私が言うのも何ですが、古来より異世界よりの転移者が居る世界なのです。
 天使達の出現で生じた強欲な調整グリード・バランス世界変容カタストロフと合わせて考えれば……理由は幾らでもつきそうです。
 一般的な事象とはとても言えません。
 この事故の性質については改めての研究が必須になるでしょうが、彼等の座標消失ロスト・コードは決して納得自体の出来ない話ではない」
「問題はそこではありません」と涼介は一度言葉を切ってかぐらを見た。
 試すような調子だが、鼻を鳴らした彼女もまた涼介の言わんとする所はとうに理解を済ませている。
「問題は……数だね」
「そう、数です。古来より神隠し・・・、或いは欧州ならばチェンジリング・・・・・・・
 所変われば品も変わりますが――少数の人間が時や世界を漂流する事は珍しくない。
 ですがね、そういう事件は個の単位・・・・で済むのが一般なのです。
 当事者からすれば大変な問題になるでしょうが、だから社会的不安は生じない・・・・・・・・・・・・・
「……二度と会えないと思っていた誰かに再会出来た奇跡を私達はどう思えばいいのだろうね」
「祝辞を述べて差し上げる事は簡単だ。私も市民の皆様・・・・・の無事は何よりだと思っていますよ」
 先刻承知で分かっていた涼介が敢えての確認を挟んだのはこの二人が不仲であるという事実に根差していると言えるのだろうが。
 閑話休題、空寒く心温まるやり取りを繰り返す者同士の仲に関わらず、二人は同じ視点で同じ先行きを見つめていた。
 かぐらの流麗な美貌は最初の報告の時点から曇ったままである。
 それを受け止める涼介の怜悧な面立ちは言葉とは裏腹に喜びの色を湛えていない。
 その理由は簡単だ。
 かぐらの言った数が最大の問題なのだ――
「正確な数はまだ判明していない。遅れて来た人も含めて今現在でもマシロ市内には新たな流民フレッシュが合流しているからだ。
 流民の内訳は老若男女てんでばらばらだ。国籍も人種も、それにナチュラルからイレギュラー、オルフェウスまでね。
 言うまでも無くドゥームスデイでヴァニタス化の症状を発症した人の姿もある」
「……」
「断続的な流入に対しての対応は常に後手になる。
 レオパル少佐――パール・コーストの連中にも協力して貰ってね。
 K.Y.R.I.E.以下、市内の行政機関がフル回転して彼等を一先ず保護し、事情を聞いている状態だ。
 多少の混乱こそ見られるけど、彼等の殆どは協力的で実に助かっている。
 まあ、それも当たり前かな。彼等にとってはなんだ。
 気が狂いそうになるあの戦いも、悪い冗談みたいな今の人類圏の事情も知らない幸福な市民なんだから。
 ……だけど、少なくとも既に数万人以上の規模がマシロ市内に出現している事は間違いない。
 最終的な規模は分からないけど、涼介君。君はこの人口をマシロ市の生産力が養えると思うかい?」
「不可能ですね」
 縋るようなかぐらの問いに涼介は冷淡な返事をした。
「現在のマシロ市が成立しているのは、天才であるシュペル氏ラプラス君の協力あっての奇跡・・です。
 マシロ市民の生活が維持されてきたのは、非常にシビアな生産計画があってのもの。
 このビルの窓から見下ろす市内発展の風景は市民の忍耐、抑圧を代償にした皮肉な徒花でもあるのですよ」
 ガラス張りのオフィスより見下ろした市内は事件の混乱こそ見られても今日も平和なものであった。
 少なくとも飢え、乾き、凍え……人心が荒み、総ゆる悪徳や犯罪が蔓延っていた時代とは全く異なっている。
 二十年を超える時間を重ね、マシロ市は漸くここ・・まで辿り着いたのだ。
 市内人口は今春の調査で三十七万人を数えたが、これが二倍にでもなろうものならばそこに残るのは破滅的結末しかないだろう。
「……今は・・いいけど。遠からず問題は噴出する、絶対に」
「ええ」
「状況次第では早贄・・みたいな事が起きないとも限らないんだ」
 まともではない社会情勢の中で、まともではない二人は二十年以上もこの街を守ってきた。
 時に唾棄したくなるような碌でもない判断も、人には絶対に誇れないような仄暗く血生臭いやり口さえ交えながら。
 マシロ市という人類最後の楽園は、美しい景観とは裏腹の人の業ばかりで出来ていた。
 救えない者は救わない。
 非協力的な市民には説得してご理解頂く。
 秩序を乱し、社会を破壊する者にはそれ相応・・・・の対処を取る――
 罪ならぬ罪は涼介のものであり、かぐらの背負うものでもある。
 全ての人間を助ける事が出来れば良かったのに。
 あんな事が無ければもっとずっと多くの人々が自由に幸福に生きる事が出来た筈なのに。
「流民の人達は権利を主張するだろう」
日本国憲法・・・・・が保証する権利ですからね」
「茶化さないで。でも、マシロ市はそれを提供するリソースが無い。
 どうするべきかの意見は割れ、間違いなく市内は分断されるだろう。
 涼介君は全部分かっている筈だ」
「勿論」と頷いた涼介はしかし平然としたままだった。
 非常に裏をめくり難い彼の調子はこれだけの事態にも平素と変わらず、それがかぐらを幾分か苛立たせている。
「顔色一つ変えてくれない、優秀・・な市長の腹案が聞きたいな」
「さて? どうしましょうね。かぐらさん」
 温く笑った涼介にかぐらはわざとらしい溜息を吐く。
「今日の今までのやり取りで私は改めて君が嫌いな理由を思い出したよ」
「本人を前にしてそんな風に言いますか?」
 強烈な嫌味を言ったかぐらに構わず、涼介はマイペースなままだった――
「――