諏訪――神璽『八尺瓊勾玉』が描いていた神域は解かれた。
春の野を覆っていた雪はフナドノサエと共に新たな春を待つかのように眠りに就いている。
夏の野に芽吹いた新たな生命の芽が育つならば彼は再び此の地に降りてくることだろう。それは暫しの別れだ。
人が明日を待ち詫びて眠りに就くのときっと同じ。哀しみも寂しさも感じ入るばかりでなくともよいのだろう。
穏やかな風が吹く。
木々と実る果実と花の匂いを連れた暖かな風は仄かに夏の色をしている。
諏訪湖に生じた御神渡り、氷の
道の先には
揺らぎが見えていた。その向こう側に見える景色はキラキラと輝いているようでさえもあっただろうか。
能力者達による先遣部隊はその揺らぎを越え、その場所へと辿り着く。
眼下に広がるのは、美しく、巨大な穴。燦燦と夏日の太陽が降りては反射してきらきらと眩しいくらいに輝いて見えた。
「ようこそ――っていうにはもう少しだけ歩かないとかな」
燃えるように揺れる手入れの行き届いた緋紅の髪を抑えて少女――八重が能力者達に言った。
いたいけな少女とは思えぬほどに、大人びた表情を浮かべた彼女にとってはこの町こそが元居た場所であっただろう。
愛らしい白縹のワンピースの裾をちょん、と摘まんで優雅にお辞儀をしてから、彼女は微笑んだ。
「此処が御津那海町……」
感嘆とした声で月雲 千星(
r2n000150)が目を瞠って茫然と呟いて。
「……そうだ、千鹿ちゃん。チカちゃんは? 先にこっちに来たんだよね?」
数歩を歩いた少女は躓いてから「はっ」と息を吐く。K.Y.R.I.E.の能力者であった匂坂愛は厭離衆を追いかけて行ってしまった。
煙の中へと消えるようにして彼女が飛び込んだのは間違いなく能力者達の通ってきたあの道だっただろう。
「花蔭さん、大丈夫ですか?」
隣に立つルームメイトの袖をちょん、とつまんで櫻瀬 紫珠香(
r2n000100)はそう問いかける。
諏訪の領域を夜に鎖し、自らを打倒する理由さえも作り上げてみせた天使は花蔭 明依(
r2n000056)にとっても大切な友人であったろう。
大丈夫だと、最初から最後まで笑って霧原 夜宵と戦っていた彼女は、それでも少しばかり気がかりだった。
「紫珠香さん……うん、私も大丈夫。ちょっとだけ感傷的になってたみたい……ねぇ、紫珠香さん。あの町、とっても綺麗だね。
聞いたことのない町の名前、旧時代には無かったはずの名前、どんなところかちょっぴりわくわくするかも」
ふわりと、明依はいつものように笑った。
「うん、そうだよ、あそこが御津那海、わたしが元々いた場所。
瑞浪の
音に、恵
那と、中
津川と、それから琵琶湖――琵琶湾の
海を重ねた町。
厭離衆と天使と、滅びの予言のせいで大変だけど、綺麗な町だよ」
故郷に思い馳せるようにして八重は笑った。
「あぁ、そう、そういえば、忘れないように言っておかないと。
これは大切なこと……なるべく、わたしから離れないように気を付けて。
大丈夫だと思うけど、もしかしたら厭離衆とか天使に見つかってしまうかも……それに、光にも」
「光?」
「うん。きっと大丈夫だけど……光に惑わされたら自分を強く持ってね」
きょとんとして首を傾いだ千星に頷き、八重は少しだけ真剣な表情を作りそう言った。
「
チカちゃんもきっと、わたし達の道しるべになってくれると思うけれど、もしもの可能性はあるから。
それでももしもがあったら、わたしや、能力者のみんなで助けに行くから」
そう、八重は言った。
「町に行こう。廻月堂の人達にみんなを紹介しないと――」
ふわりと彼女はそう続けて、くるりと身を翻してから先導するように歩き出した。
能力者達もまた、それに続いて歩き出す――町は歓迎するように輝いていた。
「……花蔭さん?」
ぽつりと、そう紫珠香が呟いた。
「月雲さん、花蔭さんが何処に行ったか分かりますか?」
前を歩いているはずの千星へとそう言って――「月雲さん?」そう言葉に漏らす。
――いない。
――いない。
――いなかった。
ふわりと笑うあの子が居ない。
愛らしく尻尾を揺らすあの子が居ない。
一緒に来たはずの沢山の能力者は変わらず其処に居て、誰かが紫珠香の手を取った。
君まで迷ったら危険だと、そう言う言葉に、頷くしかなかった。
御津那海の町は、まだ変わらずきらきらと輝いている。
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