「愛くん、愛くん、大丈夫ですか?」
首をぐんにゃりと曲げて呼び掛ける黒緋 三四郎(
r2p003226)に気が付いた様子で匂坂 愛(
r2n000011)は「あ、あ」と声を漏らした。
ぐるりと大きく渦を巻く羊の角。橙の灯を思わせる瞳。何処からどう見たって
普通の少女であった彼女は「大丈夫」と少々掠れた様子で答えた。
「わたしだって、マシロで育ってるんだよ。三四郎くん。
天使は殺せるし、誰かを見捨てる事も出来る。わたしにとって、護るべきはあの街だって自覚もあるんだから」
「いいえ。それでも、誰しもが全てを擲つことはないととかげは思います。しんしなので。
あの人が
ぱぴーであったというのであれば、愛くんが困るのも当たり前でしょう」
愛はぎこちない笑みを浮かべてから肩を竦めて見せた。岐阜に存在するという御津那海――そこからやって来ただろうと推測される
八重垣剣の半身。
かの地より彼女を追いながら八尺瓊勾玉を奪取するべく姿を見せたのは
幽石と呼ばれる神秘の力を有する火山石を利用し、冬の気と神々を蒐集せんとする厭離衆であった。
その中の一つの派閥。伊佐々派は「人々の肉体をよりましとし神を降ろし、神が名の元に世を新たに統一せん」とする思想を有していたという。
「それで、チカちゃんの、おとうさんと……ぼくたちの、まえにいた安志さん、が、チカちゃんの、おじいちゃん?」
不安げに問いかける燈森 紫空(
r2p000637)に愛は「そう、らしい」とぎこちなく頷いた。
「じゃあ、チカちゃんの、おとうさんと、おじいちゃんが、ぼくたちの……戦うべき、ひと……」
その心はやわらかく、そして優しさに溢れている。少年はそれでは愛が悲しむのではないかと言いたげな顔をして年上の娘を見つめた。
匂坂 海彦と匂坂 岩作は旧時代では神祇院の総裁副総裁として知られていた神職である。その血筋であろう愛は何ら力を持ち得ぬまま産まれ利用価値がないという烙印を押されたうえで贄としての活用方法が為にある神の名をそのまま与えられたらしい。
千鹿――
海彦が産まれたばかりの赤子を贄とするべきと進言した際に、千鹿の母親はそれを拒絶し、マシロ市の孤児院に娘を預けたらしい。
ちか。その名に合う字を当てはめるように愛という、たった一つだけの贈り物を残した母の顔さえも少女は知らない。
彼女にもっともらしい不幸という言葉を与えるならば母親から授けられた愛のひとつも知らぬまま、己は不要物であると告げる父親と再会したことだ。
ただ、彼女にとってはそれは不幸とは言い切れない事柄であった。ある種、幸運でさえも。
彼女は
マシロ市ではよくある孤児だった。だからこそ、今更の出会いにも迷う事はなく剣を振るう事が出来る。
「……愛ちゃんのお父さんと、おじいさんは絶対に私たちの前に現れるよ。
……だって、あの人たちはアオノちゃんの、ううん、八尺瓊勾玉である弥栄さまの力を狙っているもの。
今、その力を全て受け止めているフナドノサエさんを
神逐しなくちゃならないってなれば、精霊たちの守りだって薄れてしまう」
ラゼンシア・ブルー(
r2p007778)にとって自身の前にひょこりと姿を見せ、共に遊びまわった少女
アオノは掛け替えのない友人だった。
――それに、彼女は蜂須賀 タクヤ(
r2p000055)と約束だってしたのだ。
マシロに行こう。遊びに行こう。
嬉しそうに笑うアオノを思い出せば、彼女その物を
逐降さずに済んだことは喜ぶべきなのかもしれない。
されど、八尺瓊勾玉に込められた陰の気諸共、冬を自らに降ろす
大祝のフナドノサエを見捨てる事は出来るまい。
「あの冬を
穢として消し去る為にフナドノサエという神様を殺さなくちゃならないんだ。
……神を降し、調伏する……というのは、難しい事なのかもしれないけれど、僕達ならできる」
「せやな。それはあの八重っちゅー嬢ちゃんも望んでるはずや。けど、それを邪魔する奴は数多い。
ドタバタに合わせてフナドノサエごと陰の気やら八尺瓊勾玉を奪い取ってやるなんて、
悪役が考えそうなもんやろ」
スン・ウーコン(
r2p000154)はそうだというならば撃退するべきだろうと進言した。
そうだ、その通りである。そうする事で八尺瓊勾玉は救われ、フナドノサエは
信仰のもともう一度ならば形を取り戻せる可能性だってある。モフモロス ホネスキー(
r2p006708)はこの諏訪の地が特異的な場所であり、篤き信仰と神意の溢れた湖であることを強調していた。
「出来ると言えばよい。ならば、我は支えよう!」
「さすがはわん王」
もふもふと三四郎がその体を引っ張っては戻す。偉大なるわん王はふふんと胸を張ってからくるんと渦巻く尾を揺らしていた。
成すべきは決まっている。
されど――成すために、恐れるべき不安は数多い。鴨脚 華護萌(
r2p000461)は「愛よ」とそう囁いた。
「……愛し子よ、覚悟ばかりを決めずとも良い」
「華護萌さん。……有り難う。
そうだね、何だろう、チカって名前が神様から名付けられたって聞くと凄い事みたいに思えちゃった――とか、言うと誤魔化しかな。
わたしは、神様なんかじゃない。誰かに愛され、望まれて生まれたわけでもないのかもしれない。
……でも、わたしは匂坂 愛だから。マシロ市で育った
能力者だから。
あの人たちのことは認められない。あの人たちが、何を考えていたって止めて見せる」
何の力も持たなかった。何もなかったからこそ、自分は天使症候群によってその姿を変えてしまった。
ただのチカが、千鹿になることも出来ずに。がらんどうで贋物の愛だけを背負って生きてきてしまった。
「わたしはどうなったっていいよ。どうなっていい。だから、何処までだって追いかけよう。
あの人たちが、ここに来るならばここで向かい合う。それに、
御津那海へと向かうなら、絶対にそこで打ち倒す」
華護萌は
ただの人が傷つくことを厭うかのように手を伸ばしかけたが、そう、とその手を降ろした。
それから首を振ってから「善き結末となるように」と小さな、小さな願いのように囁くだけであっただろう――
わたしは、ちか。匂坂 千鹿。ただの、利用価値さえなかったがらくた。
特別に誰かを愛する事なんて、できない。愛なんて知らないから。
――けれど、それでよかったのかもしれない。父の愛も、母の愛も、知らないから、
あの人に向き合える。
「フナドノサエさんのところに、いこうか」
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