ふわり、ふわり、ゆらりゆらり、灰色の煙が満ちている。
この領域の中から、無理矢理に出ようとするのは愚策の類であることを梧桐 紫恵那(
r2n000219)は理解していた。
アヴァリティアの神聖領域の性質は隠匿と探知に特化する。その内側にあるものを隠して、そこに居る物の居場所を探り当てる。
ただそれだけの力だ。これそのものが誰かに害を与えることも、力を得ることも無い。
煙に包まれた街の中で、シェナの身柄は自由と言っていい程だった。
「ふふふ、だって、シェナはもう、何処にも行きませんよね?」
そんな風に、彼女は泣きそうな顔で笑って首を傾いでいた。
「……琥珀」
「何か仰りましたか?」
ぽつりとそう呟いたら、
陶磁器めいた小さな人形が顔を上げた。
「ううん、なんでもないわ」
手遊びをしている彼女は首を傾げ「そうですか」と呟き、それっきり顔を手元に落とす。
「シェナさんは東京って知ってる?」
白色の髪をした青年の人形が言う。
「ごめんなさい、私も行ったことが無いのよ」
「そっか、本物の僕は行ったことがあるんだって……どんなところなんだろう」
考え込むようにして人形が俯いた。白色の髪が落ちて綺麗なオパールのような瞳を覆い隠す。
それはシェナへ東京の事を懸命に教えてくれた少年にとって、大切な郷愁と憧憬が秘められた人形だ。
塩に変わった
故郷がそう成ってしまった原因が東京にあるらしいから、故郷を取り戻すためにも行きたいのだと彼は言っていた。
「シェナっち~」
星のような瞳を抱いた人形がシェナの隣でにへらと笑った。
彼女は欠けた約束の断片を探し求めているようだった。
「たくさんの約束をしたんだ~今は何だかぽろぽろって抜けてるけど、もっともっと沢山の、星みたいにきらきらした約束があるはずだしぃ」
そう言って彼女はにへら、と笑む。奪わい切れなかった約束を、誓いを手にしたいのだと。
「そうね――私も、約束をしたの」
色んな人とマシロ市に行こうって、そこでこれまで体験出来てこなかった色々なことを体験しようと。
「楽しみだしぃ~わっちはどんな約束をしたのかなぁ」
にへ、と笑うお人形に、シェナは苦い顔をした。
断片的に奪われたこの心の持ち主は今、どうしているのだろうと思うと、どうしても苦しい。
「今日も月は見えませんね」
「えぇ……今日はどんなお月様かしら」
静かな色彩を湛えた双眸で
刀を携えた人形が言った。
それにシェナは微笑みを応じよう。今は未だ、月を眺めるには時間が早すぎるけれど。
月を斬りたいと思う心、それが彼の根幹にあるものであるのだという。
その身に刻まれた傷は既にアヴァリティアの手で修復が施されているが、きっと最初の頃よりは壊れやすくなっているだろう。
「どうぞ。ご飯は食べないと何もできませんよ」
メイド服を着た人形がそう言った。彼女に続いてのそのそと動くぬいぐるみのようなアザーバイド達がお皿を提供してくる。
「……ありがとう」
提供される食事には、何の毒も問題も無かった。
異様に栄養バランスの取れた食事はどうやって作っているのかが不思議だった。
まるでおままごとみたいに彼らは動き、お姫様さながらに扱われていた。
その理由だって、シェナは分かっている。
「おはようございます! 元気でしたか?」
こてりと首を傾いで、心の底から心配そうに、アヴァリティアが言う。
「……えぇ、おかげさまで。でも、ウーアツァイトが増えているわ。この子達は誰かの感情を下にして動いているのよね」
それはつまり、あの人達の心が、沢山利用されているということでもある。
それがシェナには心苦しいばかりだった。
「貴女が寂しくないよう、色んな人を連れてきてるんです」
それが表情に出ていたのだろうか――華やぐように笑ってアヴァリティアはそう言った。
「本当なら、その人達自身を連れて来れたらいいんですけど、それをすると逃げちゃうかもしれないじゃないですか」
「アヴァリティア、どうして、そこまでするの」
もう何処にも行かないで――そんな気持ちが見え隠れする声で、彼女は言う。
「どうして、なんて……ふふふ、そんなの言うまでもないじゃないですか、貴女を護る為です。
でも、一人じゃ寂しいじゃないですか。だからお友達になってくれそうな人を。
それか貴女のお世話をしてくれそうな人を連れてきたんです」
「私は、もう何処にも行かないわ。だから、お願い。ウーアツァイトをこれ以上増やさないで」
シェナは気付いていた。彼らが少しずつ野心的になっていることに。
こうしてウーアツァイトに世話をされているからこそ、そう思えるようになってきた。
感情宝石に感化されたかの如く、その当人のように振舞う彼らは
足りないものを求めているかのようで。
来たばかりの
青い修道服を着た人形と
獅子耳の人形は誰かへの思いを吐露していた。
アヴァリティアと一緒にやってきた
兎を連れる人形と
折り鶴を飛ばす人形にも、きっとそれは言えるのだろう。
「うーん……分かりました! 一旦やめにしましょう! 実は、もうそろそろ次のお仕事を始めないといけないんです」
少しだけ考えてから、彼女は華やぐようにまた笑う。
「そうそう、あの子達は貴女の護衛として新しく連れてきたんです。仲良くしてあげてくださいね?」
シスターと獅子耳の人形を見て、連れてきたばかりの2人に視線を巡らせて、アヴァリティアが言う。
「護衛……」
「えぇ――決めたんです、私達」
一瞬、思いつめたような顔をしてアヴァリティアは笑った。
その次の一言はシェナを瞠目させるには充分な一言だった。
煙は人を惑わせ誘い虜とするマヨイガの誘いのように町の中を漂っている。
それでも、それが所詮は薄布のような稚拙なものでしかないことをアヴァリティアは知っていた。
乗り越えて、辿り着いてしまう者達が居る事を知っていた。
元々、貴女を見つけるために、貴女に辿り着いて貰うために設えた力だった。
この煙が攫うべき人は独りしかなく、この煙の中で暮らすべき人は独りしかいない。
漂う名も無い毒も、貴女を喰らおうとする小鬼も、輝かんばかりの宝石を胸に秘めた蜥蜴も、全部、どうでもいい。
貴女だけが、私と一緒に此処に居て、此処で暮らしていてくれればそれでよかったのに。
「そうでしたら、なおのことに、
優勝景品を手に入れればいいのではないですか?
一介の天使が主天使にまで上り詰めるほどの出力を持つ代物ですから。
お姫様と一緒に暮らしていける、そんな場所を作り出すことも簡単なことですよ、きっとね」
紳士然とした男はいつもは伏せる双眸を開く。奥に湛えていた金色は怪しく輝いている。
「ううん……でも、それって暴発の危険性があるのでしょう?」
眉を顰め、少女が渋る。
聡い娘である。
実際、彼女が
万全の状態であるのならば、このような些細な甘言に乗っかることなどありえなかっただろう。
けれど。
エルシャーは知っている。
この娘の弱点を、この娘の擽り方を。
「マシロ市の者達は東京で次の目標を定めつつあるそうですよ? チュートリアル後の
休息と選択の時は終わったのです。
お姫様も、今はアヴァリティアと一緒に居てくれていますが、K.Y.R.I.E.が彼女を助けにきたらどうでしょう?」
彼女は、手元に他ならぬお姫様を手にしている。
手にして
しまっている。
手に入れてしまった宝物は、また失わないように護るしかない。
「彼女は再び、K.Y.R.I.E.と共に貴女の傍から去ってしまうかもしれませんよ?」
一度別れ、もう一度手にしてしまった大切な宝物を、貴女は手放す事など出来ないでしょう。
優しく笑うエルシャーにアヴァリティアは目を伏せる。
「ふふ、もちろん。その為のお手伝いは惜しみませんよ」
――貴女と会えなくなるのは、それだけは嫌。
私の事を恨んで、憎んで、嫌って、拒んでくれたって、別に構わない。
でも、貴女と会えなくなるのだけは、絶対に嫌なんです。
「コスモスなんてどうでもいい、一緒に居られたらそれでよかったんです……でも、それじゃ駄目なんですね。
マシロ市にとって私達は一番の憂慮事項、その通りですね」
時計の針はもう、とっくに進んでしまっていた。
貴女とずっと一緒に居る為に、私は多摩という町を手に入れなくっちゃいけない。
そうしないと、貴女が奪われてしまうから。
そうしないと、恐ろしい誰かに、貴女が傷つけられてしまうから。
だから――
「私達で、多摩を手に入れましょうね、イーリロス」
――あぁ、けれど。
貴女って誰でしたっけ?
沢山、沢山のお人形。感情を求め動く可愛いお人形たち。
伽藍洞の煙の中、彼らに操られ咆哮を上げる怪物を見上げ、少女は独り呟いた。
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