横須賀キャンパスは新学期を迎え、日常へと回帰しつつある。
されど、マシロ市に設置された天使特別対策室K.Y.R.I.E.は別の話題に頭を悩ませていた事だろう。
振り返って、2054年1月7日――涼介・マクスウェル(
r2n000002)が司令室で能力者達へと
告げたその通りに、
熾天使は一部を除き地球へと降臨している。それが確かな事であるように、新人類圏と位置付けたマシロ市の統治区域には熾天使の配下であると自らが名乗る天使たちの姿が散見されるようになったのだ。
それは好機の目か、それとも品定めか。その何方であれども構わないが喜ばしい出会いでないことは確かだろう。
「――はい、……はい、そうですね。
そのような相手でも直接的に事が大きく動くわけでなく相手は
人類の偵察程度に留まるという見解は僕も同じです」
通信機越しに、K.Y.R.I.E.室長である王条 かぐら(
r2n000003)と現状確認と意見のすり合わせを行っていた嘉神 ハク(
r2n000008)は張り詰めたような表情を浮かべていた。
「こちらは横須賀より東京への海路を進む準備が完了しました。
出立まであと少し……パールコーストによる先導と前方探査を密に行いながら、能力者部隊はこの場より北上し、お台場付近へと到達する予定です」
ハクはそろりと顔を上げた。視線の先には出立準備を整える者たちの姿が見える。
この海は漸くの平穏を取り戻した。目覚めたかと思えば腹を空かせた赤子よろしく慾に濡れた凶腕を伸ばしていた
海の災禍は跡形もなく霧散したという。
青き受難の海を越え、被害確認や編成の確認、そして
これからについての方針決定を経てからK.Y.R.I.E.は東京進軍を決定したのだ。
――
当然のことですが首都機能を有した東京を目指すべきです。
K.Y.R.I.E.の内立てた目標として「首都機能奪還」という第一目的は未だ果たされていなかった。
旧桜木町方面含むマシロ市東方には塩の領域が広がっており、そちらに踏み込めばたちまち人体は崩壊するという。
故に、フレッシュ達の
帰還によって増えた人類が生存するリソースを賄う為に人類圏拡大を目指し、マシロ市は
2052年から大岡川源流域遡上作戦を皮切りに、横須賀、鎌倉、湘南地区、小田原、そして――御殿場を経て、山梨県、長野県まで到達した。
マシロ市が新人類圏と定めるのは御殿場地区に設置した富士駐屯地までであるが、目覚ましい成果を上げて来たとも言えよう。
そして、ここからだ。ここから遂に日本国の
政の中心となる東京23区に踏み入る事になる。
「それでは」と一言だけ返し通信を遮断したハクは顔をこわばらせたまま、ゆっくりと周囲を見回した。
「んだよ、海、緊張するのか? それとも船酔いする心配でもしてるのかよ」
揶揄うようにそう言った忍海 幸生(
r2n000010)にハクは肩を竦めるただけだった。
「何が待ち受けているのか、と心配しているんですよ。
海での戦いでは、不可思議な天使の襲撃がありました。それに、彼の口から出たのはメイ、妹です。
……ああ、勘違いをしないでください。僕は
血の繋がった妹に対して臆病になった訳じゃありません。
例え肉親であれど相容れないのであれば仕方がない」
そこまで言ったハクを幸生がまるで寂し気な月を眺める様な何とも居心地の悪そうな顔をした。
「……ですが、対話が可能であるならば、立ち止まって考える。
――今のK.Y.R.I.E.やマシロ市にはそうするだけの余裕と人的なリソースがあるとも認識はしています」
「うん。……まあ、行ってみなくちゃ分からねぇだろ。色々、さ……。
にしても、お台場だろ? お台場、かあ。旧時代は色々あった場所だって聞いてるぜ」
彼はハクの心に吹いた乾いた風を今だけでも吹き飛ばすように快活に笑って見せた。
真夏の太陽の様に楽しげに笑うその表情に
幼馴染の面影を重ねてからハクは「そうですね」と肩を揺らす。
「お台場、楽しみだよな。なー? ソフィーリア」
「え? あ、う、うん! そうそう。お台場、たのしみ!」
心ここにあらずとでも言った調子のソフィーリア・ペンスフォード(
r2n000028)はぎこちない微笑みを二人へと向けた。
幸生は「あー」と少々の困惑を滲ませながら頬を掻く。
いつもは明るく、夜空を照らす星の様に微笑む彼女も今はその心の置き場に惑っているようであったからだ。
第五熾天使との戦いの折、
天使ジルデとの衝突で彼女の両親は一時行方知らずとなった。何とか帰還を果たしたが現在も治療の為に入院中――
それだけではない程に彼女の心には重く圧し掛かる荷物があった。
――が、どうか。それでも気丈に振舞っていた少女はついさっき予想外の連絡を受けたのだ。
『ソフィーリア、よく聞いて。
ウィリアムさんが……お父さんが、病室から抜け出して行方知れずになった。
現時点でマシロ市内にその足取りはないの。
最後に見かけられたのは、
地下実験区アガルタへと移動する姿。
けど、アガルタに彼は居ない。
……いくつか用意された緊急時用の隠し通路には解錠の後があったわ。
もしも、それを利用したら彼は今、マシロ市には――』
医務官の
彼女の言葉を思い出し、ソフィーリアは堪えきれないと唇を震わせて息を吐き出した。
そうしてから震えを抑えるように拳を作った。見る見るうちに少女の表情は悲痛なものへと変化していく。
「ソフィーリア、どうした? ……何かあったか」
「……幸生君、パパが……パパ……居なくなっちゃって……マシロ市にはもう、いないかもって……」
やけに冷たい風がその場所には吹いた気がした。ハクはじっと彼女を見つめる。
繰り返すがこれよりK.Y.R.I.E.は漸く得た
東京への道を辿り始める事となる。
そのタイミングで抜け出したという事は彼にも何らかの事情が――それも、誰にも口には出来ぬ何らかの事情が――存在しているのかもしれない。
「どうしますか。……今から先遣部隊を抜けて、マシロに戻られても」
「そうだぜ。家族は会えるうちに会っておけよ。特に、大事にしてる親だってら、さ」
「……ううん、行く。こういう時に、ちゃんとまっすぐ前を向いて先陣を切らなくっちゃいけないってパパに教わったから。
それに、ママが言ってたの。星の導きは大事にしなさいって……だから、行く」
不安は、空っ風になって自分の背を押している。
ソフィーリアはゆっくりとタラップに足をかけた。
前を向かなきゃ、ここで俯いていたら何も始まらない。
たとえ、
ほんものでなくったって、大切だったのは確かだから。
くよくよ泣いて諦めていちゃいけない。
私は、ソフィーリア・ペンスフォード。明るく元気なソフィーリア・ペンスフォード。
――少女は
いつものような笑顔を作った。無理やりな、乾き切った微笑みだ。
「何が待ち受けていたって、頑張ろうね。それに、お台場なのよ! お台場!
きっと楽しいはず。だから、迷わないことにしたの。何があったって、たとえ、星が曇ったって」
「……そうですね。行きましょう。僕たちは新たな場所へと踏み入れる事を恐れてはならない。
人類は足掻き続けて来た。この抗戦の新たな一歩です。行きましょう」
――目指すのは、
東京。嘗て、日本国の主要統治機関が集約された中枢府である。