すっかりと慣れてしまった黴臭い空気が流れたのを感じる。微睡みの淵に在るかのようだった意識を外へに向ければ、耳を澄まさずともその音が聞こえてきた。石畳を硬い靴で踏みつけるコツ、コツ、という音だ。
「随分、久しぶりの訪問じゃないか? ま、外がどれぐらいの時間を経ったのかなんて俺はざっとしか分からないんだが」
すっかりと汚れの目立つようになってしまった上等な和装に身を包んだ青年は片目を開いてからりと笑った。それが己の今を悟らせぬ為の空元気の類に過ぎぬことをやってくるであろうあれは気付いてもいるはずだ。
木製の格子の向こう側に、ぼんやりと灯りが見えてくる。久方ぶりの来訪者はすぐにでも姿を見せるだろう。
「ふふ、まだ口を利ける余裕があったようだね。廻月の当主、その身分になってどれだけが経った」
「おいおい、こんな地下牢に入れられて俺の方が時間を把握出来てるわけないだろ?」
知っていた通りの男が現れて、青年――廻月 槐は胎の底に力を籠めてそう声を作り、肩をすくめてみせる。
隙など、一つとて見せてやるつもりはなかった。見せてやるわけにはいかなかった。目の前の
怪物に自分は未だに折れてやらぬと、そう示さなければならなかった。
見慣れた男は、いつものように溢れんばかりの自信と余裕とを抱いた妖しい笑みと共に現れた。随分と昔の人間達が着こんでいたに違いない衣と軍服とを掛け合わせたような衣装の下には筋肉質な肉体が収められている。
そんな、彼の隣――巫女装束に身を包んだ緋紅の娘が立っている。物を言わず、静かに彼に引き立てられてやってきた娘だ。
当然ながらに八重とそっくりなその娘は、前に見た時よりも随分と小さくなったように思えた。
その現実が居たたまれず、心苦しくさえあった。
「……で? 結局何をしに来たよ、スクナ様」
声に彼女へ抱いたモノが乗らないように意識しながら槐はそう男へと問うた。
「八尺瓊勾玉が冬を迎え、空になったそうだ。アーカディアVIIIの手の者が我に教えてくれたよ。
貴様が逃がしてくれた是の半身も諏訪に向かっていてね、無事に御津那海へと帰ってきてくれたようだ。
あれだけ命を懸けて我に挑む無謀の結果が無駄になった、というわけだ、残念だったね」
静かにスクナはそう語る。艶のある笑みで、けれど明確にこちらに向けた嘲りを含めた笑い声だ。
「滅びの予言様に言うのもなんだが、趣味が悪いな。その子を連れてまでやってきて言うことがそれかよ」
ちらりと、彼女を見る。表情を変えず、彼女はそこに立っている。荒々しい気配を抱き、けれど黙したまま立っている彼女は、一体何を思っているのだろう、何を考え、何を見ているだろうか。
この国でも有数の神器の片割れにそんな事を思うのも中々に自惚れたものだが、そう思わずにはいられないのだ。
どれほど荒々しくとも、其処に居るのは少女の姿をした神様でしかないのだから。
「空っぽの
器と、片割れの剣――それらがまた御津那海に集った。
繰り返しは続いているよ、廻月の当主。順調だとさえ言っていい。
都牟刈が終われば、次は草薙剣を貰い受けよう」
「あぁ、そうだった。お前はそう言う奴だよな、最初から趣味が悪い」
更に笑ってそう告げたスクナへと、槐は眉を顰め舌を打った。そんな槐を見て、スクナがくつくつと笑う。
何かを喪った人にとってはきっと夢のような、幻に過ぎない繰り返しは御津那海で起こり続けている。
それが意味しているところを思えばどうしたって今の自分の無力さが腹立たしくさえあった。
「ふふ。少しばかりの暇つぶしに貴様の顔を見に来たが、いい顔を見せてくれるものだ。
また会おう、当主。貴様が生きていれば、ね」
くるりと身を翻して、スクナが去って行く。背中を向けた男から、視線を落として少女を見た。
「すまない。必ず救い出す。俺が、そうでなくても、きっと、だれかが」
声には出さずに、口だけでこちらを見る彼女へとそう告げた。察してくれるかは、分からなかった。
足音が遠ざかる。ぼんやりと仄かに残っていた灯りが潰えて、暗がりが戻ってくる。黴臭い空気が、また循環する。
それを感じてから、槐は小さく息を吐いた。
(大方、俺に絶望して欲しかったんだろうが、寧ろ感謝するよ、スクナ)
八尺瓊勾玉が冬を迎え、空っぽになった。八重は、この町に戻ってきた。奴はきっと、敢えて情報を出さないようにしたのだろう。
(――まさか、八重が一人で帰ってくるわけなんかあるかよ。
なぁ、きっと、誰かが一緒のはずだろう?
八尺瓊勾玉を救えてしまえるくらいの、凄い連中が。
あぁ、絶望なんてしてられるか。最高だ、良い変化じゃないか。何処の誰だか知らないが、俺はアンタ等を待っていたんだよ)
口元に、笑みが零れそうになった。それを何とか抑え込んで槐は小さく息を吐く。
もちろん、油断をするつもりなんてなかった。この情報さえも、敢えて与えられた可能性を、見逃すつもりなんてなかった。
(――誰だか知らねぇが、俺が生きているうちに会えるのなら会ってみたいな。
なぁ、八重が連れてきた誰かさん達よ、この町を救ってやってくれ。あぁ、そうだ。出来ればその先で俺と会おう。
繰り返し、繰り返し、夢幻の世界で生きていく羽目になる人達だって、哀れだ。
生きたまま繰り返してる連中も、死んでただの幻に過ぎなくなってさえも繰り返す連中も)
それら全てを、救ってやるのが廻月に生まれた者としてのせきむではなかったか。
目を閉じれば、どこからか水音がした。空気の流れる音さえも聞こえてくるようだった。
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