●2026.1.04
「悪夢ですわね」
 凍える大地で白い息を零したヴァレーリヤ・ダニーロヴナ・マヤコフスカヤ中佐の言葉は何よりも端的な事実を示していた。
 降って沸いたようなこの未曽有の災害、悲劇はどうしようもない位に取り返しのつかない爪痕を既に人類史に刻み込んでいる。
 国際連合は初動において完全協力への決議を否決したが、同時に人類は良くも悪くも人類であった。
 恐ろしい程に弾力的で、何処までも貪欲な人類は最悪の敵に対しての対処法をも生み出したのだ。
 2025年前半の人類の戦いは或る程度の成果を有したものと言えただろう。
 2024失っ
 ……問題はその一時的小康状態と優位がそう長くは続かなかった事実の方にある。
「米帝が酷い目に遭ったとは聞いておりましたけど、当事者になれば笑えませんわ」
 ヴァレーリヤ中佐は残り少なくなった重火器と砲弾の事を考え苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
 世界各国に出現した最初の天使個体を人類は『天使級エンジェル』と名称した。
 彼等の習性や能力区分からこれまでに行われたカテゴライズはそれぞれ『大天使級アークエンジェル』、『権天使級プリンシパリティ』、『能天使級パワー』、『力天使級ヴァーチャー』そして『主天使級ドミニオン』。
 人類の劣勢が不可避のものとなっているのは、時間の経過と共により強力な天使が出現し、彼等の動きが組織化を続けている点にある。
 グドルフ・ボイデル中将の提唱したボイデル・ドクトリンに従い、通常戦力のみならず、核戦力までを引っ張り出した各国は一時的にその火力で天使を封じ込めるも、現在まで本質的に戦況は改善していない。
(結局は繰り返し、という事ですの……?)
 蛇の道は蛇。情報は武器なれば目ざといヴァレーリヤは階級以上の情報を有している。
「毎度あり」と捉え所のない顔で応じた情報屋ヘイゼルは平然と伝えたものだった。
 祖国の優秀なインテリジェンスは十二月クリスマス・イヴに生じた北米戦線の異変を確実にキャッチしていたらしい。
 核戦力を随伴したアメリカ陸軍主力部隊は防戦一方の戦況を打開すべく、天使側の北米拠点攻略を目指したとの事だが……
 彼等は熾天使級セラフと称される新たな天使戦力による壊滅的大敗を喫し、聖夜に悪夢を添える結果となったと云う。
 
 ――大丈夫ですよ、きっと勝ちます!
 
「……熾天使セラフが居なくとも!」
 唇を噛んだヴァレーリヤの脳裏にそう言って出撃して戻らなかったアミナ少尉ぶかの顔が過ぎる。
 欧州連合――NATOが必死の応戦する西欧ですらも及んでいないのだ。
 中央ヨーロッパからアジアまで天使勢力の食い込みを許している事は言うに及ばず、首都モスクワはシベリア側からの浸食と同時展開で大いなる危機に晒され続けていた。
「……気にする意味も無いのかも知れませんわね」
 軍人の誇りと、終わらない黄昏への絶望感が疲れた口調に滲んでいた。
 同期エッダから聞いた話を思い出す。
 人類が天使化を続ける天使症候群はその頻度と強度を増しており、特に人口の多い都市部での凄惨な被害状況は二年近くも戦い続けるヴァレーリヤにさえ伝わっていた。
 圧倒的な砲火力による制圧、被害や消耗さえも踏み潰して前進する事こそ彼女と祖国が提唱してきた必勝の手段であった筈なのに。
 だが、状況はどうか?
 猛撃を食い止め、強烈な消耗を繰り返し、それでも寸土を防衛する事さえ難しい。
「……」
 自動車化狙撃旅団ぶたいは既に壊滅的な打撃を幾度も受け、複数回の再編を余儀なくされている。
 戦車旅団や砲兵旅団があと幾つ――どれ位健在なのかはヴァレーリヤの階級では知る由も無い。
「――中佐!」
 ヴァレーリヤのそんな沈思黙考は鋭い部下の声で遮られた。
「二時方向、距離3マイルに天使打撃戦力群を出現確認!
  
「еби!」
 時に物理法則すら無視して出現する天使の攻勢はまるで魔法のようで現実感が無い。
 現代戦の常識がまるで通じない彼等との度重なる激戦で部隊の戦力は著しく低下していた。
「畜生め! 死ぬのならカツレツでも食べて死にたかったけれど、上等ですわ! 一匹でも多く道連れにして差し上げましてよ!」
 敵の詳細な規模は分からないが、ヴァレーリヤはこれが最後かも知れないと覚悟を決める――
 
 ――だが、しかし。
 
 自らAK-12しぶつを手に羽付きの迎撃をするヴァレーリヤの元に通信が入る。
 そしてその声は彼女が一番求めていた人物のものである。
「ヴァリューシャ、平気かい!?」
「マリィ!?」
 戦場で愛称で呼び合う程の戦友はやはり人生で最も絶望的な瞬間にも彼女を見放さなかったらしい。
「……無事でしたのね?」
「まぁね。ちょっと装備の新調に時間が掛かったけど――伊達や酔狂で民間軍事会社PMC何てやってないよ。
 財界をぶん殴って予算を吐き出させたから、ここが頑張り所だよ!」
「滅茶苦茶ですわね」
 先程までは死に場所を見つけたヴァレーリヤだったが、こうなれば現金なものである。
「マリィ、此方で限界まで引きつけます。其方で側面を突けます事?」
「やってみる!」
「あの羽付きをしばき倒して――今夜はводкаで焼き鳥パーティといたしましょう!」
 
●2052.04 III
「まぁ、そこまで言う以上は――退く気なんて無いのでしょう?」
 半ば呆れ、半ば諦めたように言った涼介にかぐらは小さく頷いた。
 事これに到るまでも何度も口にしかかっては飲み込み続けた事実である。
 これまでに問題を生じていなかったとしても、この先そうならないとも限らない話でもある。
 
 事実として涼介・マクスウェルという人物のクリアリングはここで行わない訳にはいかないのだ。
「仰る通りですよ。私には目的がある。
 何よりも優先すべき目的が。そして全てはその達成の為の手段に他ならないというのは全く正しい事実です」
「……」
「しかしね、かぐらさん。
 実を言えば私の目的は『貴方達人類の希望にも沿う』のですよ。
 間違いなく、澱み無く、確実に。
 ですから、私は私の目的を達成する為に活動する事に罪悪感のようなものはない。
 非常に傲慢かつ尊大な物言いをするのなら……
 
「間違いないね。涼介君は自分の為だけに内閣危機管理監になり、自分の為だけにマシロ市を造った。
 素直に言って貰えたら余程しっくり来るし、そう言われたからって君の業績には疵一つつかないさ。
 ……君は確かに救ったんだ。失われる筈だった命を何十万も、或いは何百万も。
 それが誰かの為じゃなかったからって言って謗れる位、この時代は優しくないよ」
「だけど」とかぐらは笑う。
「涼介君は全てを大っぴらにやるには不都合があるから善良な市長であらんとしている。
 少なくとも外面はそういう風にやる必要を感じている。違うかい?」
「違いませんね。
 高度知能を持つ人間社会の中で全て本音でやりたいようにやっていたら、例え合理的でも誰も納得はしませんよ。
 ……ああ、まあ、止むを得ない。
 かぐらさんがもう少し勘が悪いか、ないしは奥ゆかしい方ならそれで良かったのですけれど。
 この際です。今後の為にもここはハッキリとさせておくべきでしょうか。私の目的はね――」
 
 ――1
 
「……アーカディア1?」
 怪訝な顔をしたかぐらに涼介は「ええ」と頷いた。
「皆さんが相対する天使の首魁が熾天使セラフと称されているのは御存知と思います。
 アーカディア11とは即ち、その十一体の熾天使の集合体。
 謂わば天使のボス、その十一の個体という訳です。
 アーカディア1はその内の一体なんですよ」
「初耳だよ、涼介君。人類は熾天使と遭遇している。
 そいつが沈黙した事が人類乾坤一擲の太平洋作戦の呼び水になった事も承知している。
 ……だけど、何だって? 十一体? そんな化け物がまだ他に十も居るっていうのかい?」
 気色ばむかぐらの美貌が僅かに紅潮していた。
 涼介はオルフェウスだ。誰よりも早く日本政府に接触し、破滅の日ドゥームス・デイの被害を軽減した立役者だ。
 彼の為した事績は確かに英雄的である。かぐら自身も呑み込んだ通り、彼は確実に多くを救ったのは確かである。しかし――

 ――かぐらは今日のやり取りで初めて責める調子で涼介を問い詰めずにはいられなかった。
 彼の言う事が事実なのだとしたら――恐らくは事実なのだろう――天使には十一体の最上級指揮官個体が存在する。
 観測されても居ないアーカディア11とやらを涼介が知っている以上、彼は初動から人類より多くを理解していた筈である。
 
「……君は……っ……」
 かぐらは流石に言葉を吐く事に躊躇した。
 
 
 ――知っていた君は、本当に最善ベストを尽くしたのか?
 
 ……問い掛けは或る種の愚弄であり、或る種の愚問であり、そして致命的に毒々しい色を帯びている。
 もし、例えば。涼介はこんな風に考えなかっただろうか?
 
 ――まずは政府の信頼を得る程度に動きましょうか。
 
 或いはこんな風には?
 
 ――多少の被害は却って状況を補強する為の材料になる。
   私は私の目的の為にも、人類には必死になって頂かなければならないのだから。
 
 ……これはかぐらの妄想に過ぎない。
 少なくとも涼介がそう口にしない限りはそう観測されるべきではない妄想に過ぎない。
 されど、二十年以上共に仕事をしてきた合理性の獣はかぐらの予測の中からそんな最悪を除外してはくれないのだ。
「おや、どうしました。かぐらさん? 随分と顔色が悪いですね?」
「君は悪魔だったね」
「勿論、私は悪魔ですとも。マクスウェルの悪魔。存在そのものが矛盾の問い掛け。
 そして、皆さんの愛すべき市長でもあります。
 さあ、かぐらさん。お話を辞めて医者を手配しましょうか。それとも続けた方が貴女の望みに沿うでしょうか?」
「……ッ……」
 やや感情的に唇を噛んだかぐらに構わず、涼介は悍ましいまでに軽やかなままの口を開く。
 その先に続く言葉が自分の聞きたいものであるのかどうか、やはりかぐらは確信が持てていない――