●2026.12.24
「やあ、来たか」
 ドイツ――『旧』ベルリン。
 崩れかけた聖堂の真ん中に美しい男が佇んでいる。
「その様子では役割は果たしたようだ。尤も君の事だから最初から間違いなんて無いのだろうけど」
 夥しい数の死骸が転がる地獄のような風景の中。
 何体もの戦乙女に守護され、傅かれる彼は――『疾く暴く獣』と称された至高の魔術師ディーテリヒ・ハインツ・フォン・ティーレマンはまるで絵画的だった。

「『ヴァチカン』の連中は……成る程、問うまでもありませんか」
「酷い有様ではあっても、全滅ではないのだがね。
 例えばイタリア系の――彼女はルチア・アフラニアとか名乗っていたっけ。
 キプロスでもあるまいに。現代に姫騎士を名乗る女アルテミアも、オルフェウスの御老体ムスティスラーフの姿もあったか。
 仙狸厄狩の妖怪に、ましてや『暦』なんて忍者の集団まで見たなら――とても原理主義的とは思えないだろう?
 そんなものはいよいよ私の知る『ヴァチカン』的とは思えないな。
 傭兵を使うような連中では無かった筈だが、今回に限っては余程必死だったと見受ける。
 かき集めたであろう連中は様々で、正直を言えば実に愉快な風景ではあったよ」
「私は君の帰りを待っていただけだ」とディーテリヒ。
「だが、被害が甚大極まる以上――君にはお使い・・・を任せて正解だった。
 等価交換は錬金術の話だったか。私は専門じゃないが、伯爵サンジェルマン辺りなら一家言はありそうだけれど」
 魔術師は微笑む。
「中国の故事に倣えば、これは呉越同舟とでも呼ぶのだろう。
 まぁ、敵に回しても味方についても。
 彼等は運命を堰き止めるには余りに脆い堤に過ぎまいが、神の走狗は実に粘り強く執拗だ。
 報いの磔になった座天使を思わば、チェネザリ卿も苦笑いで十字を切るに違いない」
 珍しく冗句めいた主人に従者アリシスは似たような、幽かな笑みを浮かべて頷いた。
 
 ――2024年4月より始まった天使の猛攻は2026年の年末に際して人類を滅亡寸前にまで追い込んでいた。
 
 時に愚かな戦争を経て、時に信じられない位の間違いを侵しながらも。
 紀元後より数えても二千年を超える時間を過ごした人類の繫栄の歴史は嘘のように黄昏の時を迎えていた。
 時の中で連綿と受け継がれてきた人類史は2026年の時代において既に吹けば消える風前の灯のようなものだったに違いない。
 
「――米国主導の『太平洋作戦』は成功裏に終わったと聞いています。
 そして、欧州の座天使級ソロネの一も今まさに御身が。
 残るは一ですが、それも欧州神秘界が総力戦に出た以上、時間の問題ともなりましょう」
宝石エーデルシュタインの鴉殿、使徒達も私が言って聞くような連中でもない。
 自ら選別と審判を望んだのだ。彼等に同情する心算も理由も無いが――果たしてこれは悲劇か、喜劇か」
 魔術師は――ディーテリヒは歩み寄り、血の付いたマントをアリシスに預けた。
 血濡れたそれをぎゅっと抱き、自然な所作で顔を埋める。濃い鉄分の香りは下賎な愚物だけのものではない。
 
 絶対にして至高。聖逆戦争かつてのあらそいでも傷一つ負った事の無かった主人が酷い手傷を負っている事に彼女の柳眉が歪んだ。
(嗚呼――何ていう)
 相対した敵を思わば消耗していない筈も無い。
 噎せ返るような血の海の中で、転がるパーツの悉くは天使のものだけでは無いのだ。
 原型さえ留めない肉塊達の悉くが天使だけである筈が無いのだ――
『ヴァチカン』の手練れの悉くが挽肉になった世界に主人ディーテリヒは君臨し続けているだけなのだから。
「己が非才は承知している心算です。しかし、貴方様と轡を並べる機会を逸した未熟に関しては痛恨の極みと申し上げる他はありません」
 アリシス・シーアルジアの硬質な美貌にこの言葉を吐いたその時ばかりは強い感情の色が乗っている。
「君がそう思う必要はない。
 人にはそれぞれの役割がある。無論、天使も同じだけれど。
 座天使の破滅は、この結末は別に獣が望み与えた審判では無いのだよ」
「……と、申しますと……?」

 天使は――特に高位の個体は人のなりをしているなりに賢しらだ。
 彼等は人間の兵器が存外に甘く見れない事を知っていた。
 座天使ともなれば通常火力ならばどうにかしたかも知れないね。
 そんな真似事は私にだって出来るのだから、そう難しい話ではない。
 でもね、可愛いアリシス。
 核戦力と通常戦力の連携的活用――即ち、ボイデル・ドクトリンの与えた戦果は高度な思考能力を持つ天使にとっての脅威である事は確かであった。
 米国主導で生じた最終闘争たいへいようさくせんが人類の生存圏を賭けた極限の攻撃計画である事は疑う余地も無い。
 翻ってその二つの事実が示すのは、この局面にまで到れば人類はどんな手段でも肯定しようという事実に他ならない。
「裁きの炎は敵対者と自身に等しく傷みと痛みを降らせるだろう。
 このベルリンにまでそれを持ち出す判断をした事は至上の英断であり、最大の愚挙であったとも言えよう。
 だが、ゲヘナの火はこの世界を灼かなかった。
 天使は知っていたからだ。賢しらな彼等はそれ・・を防がない訳にはいかなかった」
 太平洋作戦は全人類圏が一致団結して天使に立ち向かう最大の反攻作戦だ。
 この戦いに際しては本来ならば歴史の闇に潜む悪たる者達も多く駆り出される事になっていた。
 ディーテリヒ自身がそう言った通り、『ヴァチカン』と彼の率いる結社『Baroque』は不倶戴天の大敵である。
 そんなのっぴきならない間柄の連中までもが轡を並べる以外の選択肢が無い戦いがここにはあった。
 地上ではNATOや米国を中心とした残存戦力が天使に決死の攻撃を仕掛け、海より戦略原潜が『ゲヘナの火』の射出を図る。
 実を言えば魔術師達が直接攻撃を仕掛けたのもそのプランの一つに過ぎない。
 人類は選ぶ手段を持っておらず、彼等は最善を尽くす以外には無かった。だから。
「だから、アリシス。可愛い私の弟子。君は十分な仕事をしたと思って良い」
 惨劇の聖堂を後にしたディーテリヒをアリシスは少し慌てて追いかける。
使
 君は天使に核の場所を流し吹き込み、彼等は正しくそれに対処した。
 まさか悪くは云うまいよ。審判は誰にも公平なものだ。
 かくて天使は守りを緩め、彼等の尊き意味は文字通り人類圏の礎となったのだ。
 より強い者が残り、より賢しい者だけが次を紡ぐ――私はそんな世界を嫌いではない。
 彼等の知性も能力も覚悟も悪辣さも――全く十分に評価しているよ。
 何せ、彼等の支度では元より私ごと吹き飛ばす心算だったのだろうからね」
 爛れた戦場を思わせない冬の夜気は冷たく、自然に火照った肌を慰めていた。
 
●2052.04 IV
「――いい加減にしときなよNE!
 俺様のかぐらchangを苛めちゃおうっつー話なら、俺様に断ってからにしてくれる!?」
 市長室の空間が引き歪み、有り得ざる異変が生じる。
 軽薄な物言い、独特な声色でそう釘を刺したのは振り返ったかぐらの背後に出現・・した一人のオルフェウスだった。
「ラプラス君さあ。誰が君のかぐらなんだいっていうツッコミは必要かな?」
 ラプラス・ダミーフェイクは今日のマシロ市を成立させた立役者の一人であり、現在の市政最大のキーマンの一人である。涼介と何らかの契約を交わしているらしい彼は異世界のスーパーコンピューターのような存在であるらしく、その異常なまでの演算能力と異能でマシロ市のシステムを管理している文字通りの化け物・・・なのだ。
「つれないNE! 今のは感謝して貰ってもいーと思うんだけど!?」
「感謝して酷い借りを作りそうなヤツには最初から感謝しない事にしている。
 真っ当じゃないからそうしているんだから、君達はまず自分の生き方から改めたら良いよ」
「うっわ、ガチなヤツじゃん。涼ちゃん、めっちゃ言われてるYO! 反省してNE!」
「真面目なお話の最中なので邪魔をするならば退席願いたいのですが」
 当然のようにおちゃらけるラプラスを涼介は全く取り合わない。
 レンズの奥の怜悧な瞳を細めた彼は闖入者の目的を値踏みしているようにも見えた。
「いや、割と用はあるんだよねェ。つーかさ、涼ちゃんさあ。キミの腹案って結局俺様もありきじゃん?
 あー、違うなあ。かぐらちゃんもありきじゃん?・・・・・・・・・・・・・・
 そこ感謝しろた言わねーけど、性格悪い切り返しで困らせるのはどーかと思うワケですYO!
 もう面倒くせーから言うって決めたならビシっとしなさいYO! 男子でしょ!?」
 涼介は「ささやかな仕返しじゃありませんか」と意趣返しを認めて溜息を吐く。
「口が裂けても清廉潔白とは言いませんけどね。二十年も一緒に居たかぐらさんに疑われるのは実に悲しいものですよ」
「心にも思っていない事、言わないで貰っていいかな?」

 強烈な皮肉を述べた涼介は「それで、話の続きでしたっけ?」と咳払いをする。
「私の狙いは熾天使セラフ、アーカディア11の内の一体という話はお伝えしましたね?
 アーカディア1――『マリアテレサ・グレイヴメアリー』という個体は言ってしまえば私の遠い故郷の仇でしてね。
 私は――私の世界は彼女に敗退し、滅亡しました。オルフェウスが天使を付け狙う理由としては酷く妥当なものだとは思いませんか?」
「……君に敵討ちなんて人間的感情ウェットが存在するとは思っていなかったけど」
「御挨拶な見方です」
 肩を竦めた涼介は促されるまでもなく話を続ける。
「かぐらさんは私が何処まで知っていたかに興味津々でしょうけど。
 言った通りです。1のでね。
 彼等の形態や組織、或る程度の情報を私は有している。
 その全ての共有しないのは、ハッキリ言えば知った所でどうにもならないからですよ。
 むしろ余計な不安を与え、最悪暴発の理由にもなりかねない。
 マシロ市の運営に強力なリーダーシップとトップダウンが必要なのは御存知でしょう?
 人々が天使について知るのは良い。
 ……まぁ私の判断が気に入らないと言われればそれも納得はしますけどね。
 少なくとも私は私の持ち得る全てを皆さんに提供しなければならない義務はない」
「政治判断って言いたい訳か」
「どうとでもご随意に」
 涼介は否定せず、かぐらを見た。
「アーカディア11は熾天使の集団と言いましたが、個体としての実力は番号が若い程強力になる。
 アーカディア1は熾天使の中でも特に圧倒的で、絶望的で、どうしようもない存在です。
 直接知っている私はそれを断言する事が出来る。
 かぐらさんの知りたい話は私が何故市長を続けているか、でしたっけ。
 簡単ですよ。そんな天使に一矢を報いようとするのなら、マシロは強くなければならないだけだ。
 
 私は皆さんより幾分か天使に詳しいからこそ、天使に対する本質的理解を持っている。
 私が皆さんに対して真に誠実であったかは……信じて貰うしかありませんけどね。
 
「まー、そうかもね」
 黙って聞いていたラプラスが一つ大きく頷いた。
NE
 俺様は話聞いて面白過ぎるから手ぇ貸してるだけだから、その辺は涼ちゃんが言わねーなら言わねーけどサ」
「恐縮です」と涼介は小さく頭を下げる。
「マシロ市の流民問題――人口爆発による危機への腹案ですが」
「……うん」
「このラプラス君とシュペル氏に働きかけ、既に二カ月以上前から準備を進めていました」
「準備?」
「はい。厳密に言うなら今回の事件に対しての対策ではありませんけどね。
 かぐらさんならこう仰るでしょう。『まるで知っていたようにやるんだね』とか。
 ……まぁ、それは当たらずとも遠からずです。去る二月、我々が一人の少女を保護していたのを覚えていますか?」
「ああ、あの――確か記憶喪失の」
「はい。雪代刹那ゆきしろせつな
 片翼の堕天使は冬晴れの日に文字通り空からマシロ市に堕ちてきた。
 経歴、名前も含めた一切が不明。今でも刹那はマシロ市の保護下にあるが、その情報はこれまでかぐらもアクセス出来ない場所にある。
「……何かおかしいと思ったんだ。君の扱いと態度が。彼女は一体何なんだ?」
「さてね。仮に知っていても言いませんが――分かっている事もある。
 何処までを関連付けていいのか皆目見当もつきませんがね。
 彼女の出現と同時に地球の世界変容は更に進んでいるんです。天使の活動が活発化しているのも御存知でしょう?
 それは即ち、非常にこの世界が神秘的な事件に振れやすくなった、という事実を示しています。
 だから私はね。から
優秀・・だねえ、本当に」
「嫌味でしょうが、効いてませんよ。
 準備とは果たして何か。分かりますか?」
「……」
「時間も無いので結論から申し上げれば、それはこのマシロ市の生存領域を拡大する大作戦についてです」
「まさか、撃って出る気なのかい!?」
 目を見開いたかぐらはこれまでのマシロ市の拡張計画が悉く失敗に終わった事を知っている。
 そこには無論と言うべき夥しい被害がある事も。
「マスコミがとんでもない事言うぜ」
「ニュース君とか? 彼のような人物はマスコミではなく小説家・・・と呼ぶのです」
 マシロ市でレイヴンズである事は特別な信頼を担保しやすい。
 権力の監視という意味において特にこの楽園ディストピアでは重要な役割を果たす存在なのかも知れないが……
 彼の場合はどうであろうか? 何時の世にも社会の公器と言う名の面白がりはいるものである。
「結局は座して死ぬかどうかの問題にしかなりませんからね。
 退
 しかし、無策でそれを強いるのは愚か者のやる事だ。
 かぐらさんも御存知でしょう?
 
 我等がマシロの抱える戦力は過去、現在においてこの瞬間が最強・・になったのです」
「涼介君の狙いは?」
「海岸から近海と市内からアクセス出来る近隣地域のクリアリングです。
 マシロ市の勢力圏を確保し、生産力を向上する。
 レイヴンズ候補の中から人類の為に戦ってくれる戦士を見つけ出し、態勢を強化する。
 先程も言いましたが、私はセツナ君の保護と同時に人類圏を取り巻く事態が加速していると承知しています。
 遠からずアーカディア11が顕現すると云うのなら、現状維持は破滅の結論に他ならない。
 その為の準備は済んでいると言ったんです」
 涼介がそこまで長広舌を垂れた時、彼の腕時計が小さく電子音を鳴らしていた。
「――定時です」
 眼鏡を畳んでケースにしまい席から立ち上がった彼はスーツの上着を肩に掛け、すれ違い様にかぐらの肩をポンと叩く。
「生憎と残業は嫌いでね。これ以上、今日聞きたいのなら別料金を頂戴するよ。
 まぁ、君が一晩付き合ってくれるのならずっと饒舌に幾らでも」
「まっじウケる。ホント涼ちゃんって本気でクソ野郎だもんねえええええええ!
 そら信用されないって。『市民の皆様を愛しておりますのでー』とか!!!」
 ゲラゲラと下品にラプラスが笑い出す。
 水を向けられたかぐらはと言えば溜息を吐くしかない。
「……ああ、が嫌いな理由がもっと・・・あった事を改めて思い出した次第だよ」
 
 
 微睡みの揺り籠
 永遠の楽園
 
 悪意無き遂行
 良識ある絶望
 喪失はこの刹那にこそ爪痕を刻む
 
 空の使いに弑逆を
 零落の天使に花束を
 これは全て、終わりから始まる物語。
 
 人類の黄昏は既に決定的だ。
 人々には残された寸土にしがみつき、明日なき明日を求める以外の術は残されていない。
 Lost Arcadia、それは終わりより出でてまだ始まってもいない『何か』。
 君はこの場所に戻らない時を知る。
 そして、きっと立ち止まらない意味を知るだろう――