とおりゃんせ


 マシロ中華街の地下には龍が棲む――

 そんな言葉を思い出す。だからといって臆病風を吹かすのは性に合わない。
 可愛らしい余所行きのワンピースに歩きやすさを重視した運動靴。何処からどう見たって外見だけで判断したならば表に生きるべき娘が一人。
龍華ロンファ会はどうするのかしら。
 K.Y.R.I.E.が外交をお考えだから、内々に全てを済ますのかしら。
 それともご温情? 龍妃トップは優しいものね。下手に傷付けたくはない、なんちゃって~そんな言い草なのかしら」
 くすくすと笑う声音が反響する。裏通りから元町中華街駅跡へと続いていくスラムは薄汚れて、何処までだって潜っていける気配がした。
 少女――糸瀬 きい(r2n000055)はきょろりと周囲を見回してから「困ったものよね」と囁いた。
 足を止めてわざとらしく尾を揺らす。こてんと子供が甘えるような仕草で首を傾いでみせる少女は誰ぞに語りかける様に言った。
「大量のフレッシュの到来。それからマシロ市街への慣らし運転を兼ねての遠征、合わせて刻陽学園のキャンプ合宿。 
 とぉっても楽しいけれど、そう言う混乱って内側にも膿が溜るモノなのよね。きいはそういうのを見るのが好きだけど……君は?」
「好き、と言うとでも」
 影を一瞥する。ゆっくりと物陰に潜んでいた男が姿を見せた。きいは「ご縁があるわね、警部」と笑みを深くした。
 僅かな苛立ちを滲ませる春名 朔(r2n000031)の鋭い視線を受け止めようともきいは何処吹く風で笑うだけだ。
「人生って多少のスリルが必要だと思うのよね」
「……俺から見てスリルの固まりすぎる貴女には思うところがあるのですが」
「あら。私ったらそんなトラブルメイカーかしら。警部だって、普段ご一緒のオジサンはどうしたの?
 あ、もしかして、きいが可愛すぎて物陰かしら。罪作りな女だものね、きいったら。それともきいよりいい女がいた?」
「……来栖さんでしたら、龍妃の所に。定期的な警邏業務の一環ですが」
「ふうん。オジサンもよーく仕事をしてるのね。感謝状を出しちゃおうかしら。きいってサインも入れちゃう」
 眉を顰めた朔にきいがくすくすと笑った。
 糸瀬 きいと言う娘は出自も何もかもが出鱈目な儘にマシロ市に申請が行なわれた少女だ。その名前さえも本名であるか怪しい。
 ただ彼女が唯一公表したのが「きいの両親は終末論者だった」という事だけだ。当人がそうでないならば刻陽学園への入学も、マシロ市内での能力者としての活動も可能だ。
 K.Y.R.I.E.の一員で、マシロ市の健全なる仲間であることは確かだが――彼女は怪しいのだ。
 何もかもをはぐらかし、自らの事をつまびらかにする事がない。飄々と何もかもを隠してしまうその姿が怪しくはないとは迚もじゃないが言い切れない。
 朔が向ける疑りはきいにとっては日常茶飯事で、彼と、彼が時折行動を共にする来栖 正孝(r2n000072)の何方もがきいの動向に疑り深い視線を向けていることをよくよく理解している。しかし、だ。
「きいは普通の刻陽学園の生徒よ。後ろ暗いことはちょっとしかない」
「……ちょっとも合って欲しくはないんですが」
「ただ、情報通なのよ。警部だってそのつもり出来たでしょう。龍妃サマへのご報告もしなくっちゃならないものね。
 ええ、ええ、君の思った通りよ。フレッシュの問題児さんはこの地下スラムに逃げ込んでる。
 表が平和なのは龍妃サマたちのご尽力かしら。K.Y.R.I.E.の能力者を信頼していないのではないでしょ? だってあのヒト、優しいもの」
「……龍妃の人柄は兎も角、まだ戦闘にも不慣れな能力者をに、とはそうそう言いだし辛いでしょう。
 何せ、人間が天使になるという事象をも受入れられない能力者も居るのです。俺や、貴女ではない」
「きいも人を殺すのは心が痛むわ。優しいから」
「――調子が狂う」
「でしょうね。私と君って性格が真逆だもの。真面目ね、警部。
 龍妃はこの現状とK.Y.R.I.E.の素晴らしき結果を受けてそろそろ治安維持でもお願いするつもりになった?」
 朔は応えない。龍華会は必要悪だ。マシロ市にとって不要な存在ではない。市政とも繋がりがあり警察機関ともそれなりの連携をとる。
 朔や正孝がこうして堂々と警邏業務を行って居るのも龍妃の考えの元だ。勝手な行いではない。
「今のスラムは困った事になっているわ。フレッシュは全員が善人ではないものね。悪人達は追い立てられるように地下へと下っていく。
 この現状を受入れられない者も居た。混乱と困惑の気配は火種のように燻って、いつかは破裂してしまう。
 それに……ね、そう言うときだからこそ時々賢い奴らが種を植えに来るのよ」
 にんまりと笑ったきいは「龍妃サマに伝えてくださる?」と甘えたような声音で言った。
 遠巻きに怒声が響き視線を逸らした朔から遁れるように少女は猫のようにするりとその場を後にして。

「行きはよいよい、帰りは怖い。
 人を罰する立場になってしまったら、戻れる場所ってあるのかしら――?」