アガルタ研修会2052
リーフレットを配布するアガルタ所長シェス・マ・フェリシエ(r2n000067)は穏やかな笑みを浮かべている。
刻陽学園では毎年の9月に地下実験区アガルタとの研修会を行なっている。これは動植物の遺伝子保存として地球の未来を背負うアガルタに親しみと興味を持って貰うための催しだ。
つまり、優秀な刻陽生達が研究者としての道を選ぶ事も出来るのだと熱烈な歓迎をしているのだが、いまいち伝わっていない。
初等部の生徒などは「ぶどう狩りする!」や「カレーを作るんだ~」などと喜んでいる。広大な自然に触れ合う機会がそれ程多くないマシロ市民にとっては遠足に次ぐ楽しみであるのは確かなのだろう。
「今年度は変革の年です。2052年はフレッシュの皆さんが来た事からアガルタでは更なる食糧への意識改革を行って居ます。
それ以上に遠征が始まったならば、兵糧や備えも必要となる。味、食感、素材など能力者の皆さんの反応を見て我々の糧にしたいのです」
シェスはこの研修会にも意義があると告げる。確かにアガルタに親しみを持つ以外に今後の研究に生かしていける可能性は十分にあるだろう。
しかし――それで終わらないのがアガルタ研修会だ。
「これはるうあが作ったごぼうです! それからこっちがさやえんどうっぽいもの!」
「ぽいっていうのは、ちょっと遺伝子改良したって事かしら?」
「そうですよ! アオちゃん先輩は何か食べたいお野菜ありますか? えへへ、るうあが頑張りますよ!」
三角巾とエプロン姿でにんまりと笑っているのはアガルタにも出入りしている初等部の生徒である。
るうあ(r2n000029)と通常は名乗る彼女はアガルタの研究員としては月原 るうあと登録を行って居る。品種改良時に名前を載せる際に苗字がある方が何かと判別がしやすいからだそうだ。
そんな彼女は悪魔と呼ばれる異世界からの来訪者だ。幼くはあるが、異世界の知識を生かしているのだろう。
アガルタの研究員としては幼いが彼女はそれなりの研究結果を齎しているそうだ。野菜が歩き回っているのは……良い結果と言えるのか定かでは無いが。
「そうねえ……持ち運びの出来る食材って限られるわよね。いっそ、一口サイズで色んな味が楽しめるとかならいいのに」
「アオちゃん先輩ったらディストピア」
「えっ!? いや、だって、かさばると大変じゃない!?」
「そうなんですよねえ。でも、完全栄養食だよってしちゃうと食べる楽しみが喪われる……。
難しいです。やっぱり食べる事は楽しいんだよって研修会で所長が教えたい気持ちに賛同ですし」
「それはそう。やっぱり美味しいものを大切な人と食べたら幸せじゃない!」
「私とか?」
「そうそう! って、こら! もう、るうあの事は大好きだけど恥ずかしいでしょう!」
「えへへ」
相変わらずの様子で友人である天羽・アオイ(r2n000026)と話しながらリーフレットの配布をしている様子は微笑ましい。
優等生で真面目にも見えるアオイだが少々のドジを踏んでるうあにリカバリーをして貰うことも、るうあの新規発明に付き合わされて空をも飛びそうになっている所を見かけることもある。つまり、まあまあ問題児ペアなのだ。
しかし、シェスは彼女達の言う「食べる事は楽しい」「美味しい物を大切な人と食べたら幸せ」には頷く部分もある。
それを欠いてしまえば人間の心は次第に枯れていくのだ。
アガルタでは人々が食事によって生の楽しみを欠かさぬようにと尽力をしているのだ。
「月原ちゃん」
「はい、マ所長」
くるりと振り返ったるうあはそう呼ばれたからだろう研究者の顔をして居た。
溌剌と笑う少女ではなく、新たな研究に向けた期待の滲んだ眸だ。
「初等部の生徒達の果実狩りも、調理実習も、楽しい物になると良いね。
ああ、それから、調理されたくないと逃げ回る野菜だとか、他研究者が研究結果のお披露目を行なう際に能力者の力が借りたいと言うけれど……」
「お披露目を行なうときに借りるってどう言うことなの?」
困った顔をしたアオイにシェスは「敏捷性だとか、そういう生物的な強靭さを確かめたいとか、色々ね」と肩を竦める。
「はい! その辺りもK.Y.R.I.E.の能力者さんたちにカバーして貰いましょう。
何時もは刻陽学園の行事でしたけど、今年はK.Y.R.I.E.の能力者さん向けの研修会にすると良いと思います。
アオちゃん先輩がにこにこで持ち帰った人参君が大脱走していても能力者の皆さんは助けてくれますからね」
「待って、待って、待って。るうあが作ってた人参脱走するの!? 私の人参は何処に行ったの!?」
るうあが「さあ」と首を振る。驚愕の事実を受けて困惑するアオイの「るうあ~~~!」の呼び声を聞きながら彼女はリーフレットを手に「皆さんに配りながら人参探してきます!」と駆けて行った。
刻陽学園の二学期が始まった。
それから、遠征任務も開始された。先遣隊は大きく変化した横浜の様子に何を思うだろうか。
――新世代にとっては嘗ての姿は想像もつかぬほどに変化をしてしまっただろうか。
「どうなさいましたの?」
突如、シェスの頭上にあったモニターから声が響いた。
「ああ、『V.A.L.K.Y.R.I.E.』か。いいや……皆が楽しんでくれているといいな、と思っただけだよ」
「あむちゃまも、皆ちゃまも楽しい毎日を過ごしてくれているはずですの!
きりはそれを願ってますの。その為に、きりは産まれて、マシロ市を支えているはずですの」
嬉しそうに笑った制御AI『V.A.L.K.Y.R.I.E.』はハッとしたような顔をしてシェスを見た。
「所長ちゃま、アガルタのA区画で牛ちゃまが暴れてますの! 研修会の為に連れてこられた子ですの!
このままではアガルタを信じろ!してしまいますの。大変ですの」
「……直ぐに戻るよ。ありがとう。V.A.L.K.Y.R.I.E.」
「いいえですの。楽しい毎日になりますように」
ひらひらと手を振って、通信が遮断される。シェスはゆっくりと地下実験区に戻っていく。
人工の太陽は、決して大いなる自然の恵みではない。滅びに向う地球に抗うように作り出した楽園のような広大な自然。
その場所を喪わぬ為に継ぐ人々にその大切さを教える研修会を楽しみに、足取りは軽かった。