疑念と紛糾


「大作戦の始動はだ」
 王条かぐらの口調は実に静やかなものだった。
「新生したマシロ市が初めて直面する大きな分水嶺になる。
 過去数か月の苦労も、それを支える為の市民の負担も全ては計画をクリアする為――」
 即ち、天使勢力に奪われたままの人類の生存圏を再奪取するプランである。
 始まりは時間転移ロスト・コードによって引き起こされたものだが、マシロ市がより多くの人口を抱えようとするなら。
 黄昏の時を迎えて久しい人類が新しい一歩を踏み出さんとするならこれは何れにせよ絶対に必要な道程であった。
「……その、お互いに滅茶苦茶に忙しい今日。
 わざわざ君に時間を作って貰った理由は分かってるよね?」
「涼介君」と念を押したかぐらの声には抑揚が無く、押し殺したような凄味が混ざっていた。
 普段、他人に見せる朗らかな顔ではない。切れ長の金色を細めた彼女は返答如何ではただじゃおかないという剣呑な気配を全く隠していない。
 それは会話相手の鋭敏さに期待するというよりも、もっと直截的に彼女の感情の色を表しているようであった。
「……さて。心当たりが幾つもあるので、そのお話だけでは何とも」
 市長室にデスクに座ったままの涼介・マクスウェルは口元に幽かな笑みを零し、瞑目している。
 気の置けない間柄ではないが、付き合いの長いかぐらの珍しい様子にもこれまで動じた調子は無かった。
「生憎と今日は言葉遊びをしている暇は無いんだ」
「でしょうね」
「だから、君のペースに付き合う訳にはいかない。ハッキリと、正面から言わせて貰うよ」
 かぐらの目が一層細くなり、豊かなバストが気を張るように大きく息を溜め込んだ。

 ――涼介君、君は一体何時から横須賀基地の真の姿に気付いていたんだ?

「何の事やら、と言っても信じてはくれませんよねぇ」
「そんな返答をしたら気障な眼鏡をカチ割って……いや、足りないな。その眉間を撃ち抜いてやるとも」
「それは御免被りますね」
 苦笑いを浮かべた涼介は漸く目を開けて姿勢よく目前に立つかぐらの姿をじっと見つめた。
(可愛らしいものではないですか。そして余りに聡い。
 目の前に居る悪魔と対等な取引なぞ望むべくも無いのに。部下の為、市民の為、いやさ仲間の為に全てを背負ってここに在る。
 いやはや、対応次第では刺し違えてでも、という決意はきっと本物なのでしょうねえ!)
 酷薄なままの涼介はしかして同時に王条かぐらという女の在り様を賞賛する心持でもあった。
 力の多寡、運命の有無に関わらず、どうあれそれは誇り高く美しい。

「良いでしょう。正直にお答えします」
「……………」
 前置きをした涼介をかぐらは強く睥睨していた。

「は……!」
「最初からですよ。横須賀基地の溜め込んだ戦力は規格外だ。
 これまでのやる気のない小競り合いとは話が違う。天使連中は積極的な交戦を望んでいなかったようですが、エリアの本拠まで攻め入られれば話は別です。
 第一が横須賀基地を統べる天使個体は『力天使級ヴァーチャー』ですよ?
 かぐらさんなら御存知でしょう。その階位は2024年4月、つまりドゥームス・デイ発生当初、極東全域の指揮官として君臨した『崩天』ミハイルに次ぐ。
 天使の内でも数える程しかいない中上級個体を擁する横須賀がこれまでと同じになる道理がないではありませんか」
「それを知ってて何で――」
「――何で無理な作戦にマシロを、K.Y.R.I.E.を付き合わせたりしたんだ、って?」
 頬を紅潮させて抗議めいたかぐらを涼介はハッキリと軽侮するように遮った。
「逆にお伺いしますがね、かぐらさん。
 無理を通せば道理は引っ込む、という言葉を御存知ですか?
 ええ、異世界の流民たる私が賢しらにこの国の言葉を振りかざすよりは承知しているでしょうとも。
 要するに言葉の本質はという事です。
 かぐらさんは余りそう思っていないようだから――ハッキリお伝えしますけどね。人類は既に一度滅びているんですよ」
「……っ……」
「一度は滅びた人類がかつてのような叡智も物量も十分ではなく。
 それら偉大な足跡を終わらせたものに身一つで挑もうとしている――
 この戦いに無理ではない状況等というものがあると、本当に思っていたのですか?」
 涼介の表情に悪意はなく、しかし嗜虐的な嗜好が見え隠れしている事は否めない。
 彼は咄嗟に返答を失ったかぐらに畳みかけるように言葉を続ける。
「ですから、最初からです。より厳密に言うならばこの程度は想定していた、と言うべきでしょうか。
 私は分かっていて今回の一連の作戦を立案しました。
 かぐらさんの言葉や思いを借りるなら、K.Y.R.I.E.が全滅しかねないようなとんでもない無理難題を承知の上でね。
 勿論、この期に及んで撤退も中止も認めません。人類は己が手で未来を勝ち取らねばなりません。
 尤も、私は人類とは縁もゆかりもない一つの悪魔に過ぎませんけど」
「……悪魔に神頼みをするのも何だけどさ。私は今、心の底から君にそれでも腹案がある事を期待してるよ。
 そうでなきゃ、何十年と付き合った上司を私は本当に撃たないといけないかも知れないから」

 ――だからさあ。前も言ったけど涼介Changは性格悪すぎんだってば!

 いよいよ緊張感が危険水域に差し掛かった時、場にそぐわない能天気な声が張り詰めた空気を攪拌した。
「かぐらさんはね。とても頭が良い上に反応が瑞々しいからからかいたくなるんですよ」
「……それ普通に女子に死ぬ程嫌われるヤツだからね。ねー、見てきたように言うけどさ」
「はい?」
「涼介Changの周りの女子って暫くすると死んだ魚みたいな目で冷たい反応するようになるでしょ」
「ですから二十年以上付き合いがあってこんなに新鮮なかぐらさんは貴重なんですよ」
 マシロ市の機能中枢を掌握する生きているスーパーコンピュータ。現れた男――ラプラス・ダミーフェイクは涼介と同じく得体の知れない悪魔オルフェウスである。
「凡百共のつまらん冗句に付き合う暇はないのだが?」
 そしてもう一人。かぐらに気配さえ察させない内に現れた男が大仰でわざとらしい溜息と共に毒吐いた。
「その苦情はいけ好かない陰険眼鏡に向けてくれよ、プロフェッサー」
「貴様もドン、と構えておけば良いのだ。悪魔の戯言に正面から向き合う等、愚者の仕草そのものだろう?」
 改造白衣にモノクル、余人を寄せ付けない圧倒的な唯我独尊のオーラを纏う彼はシュペル・M・ウィリー。
 マシロ市建造計画のコアを担った人物であり、同時に旧世界アーリーデイズにおいてはロストナンバーの称号を得ていた天才アーティファクト・クリエイターである。
「何れにせよ、我々が顔を出した以上は理解出来るだろう。
 今回の作戦はそこの趣味の悪い冷血漢が一人で決めたものではない。
 同時に横須賀基地攻略作戦は決して勝算の無い話でもない。
使
「……嫌な政治家共だね。諜報部も真っ青だ。現場担当に鞍替えしたら?」
 かぐらは具体的な敵の情報を知っているかのようなシュペルに皮肉を言った。
 無論、K.Y.R.I.E.はプロだ。その程度の話こちらからでも披露は出来る。
 しかし、何だ。態々報告しなくてもこの野郎共は勝手に情報を持っているらしいから癪に障る。
「作戦があるんですよ」
「……どんな、と聞かせて貰っても?」
「極めて変則的かつ特殊な作戦です。情報が外に出てしまった場合、全てが意味を為さなくなるような。
 かぐらさんを信じていない訳ではありませんが、貴女は些か情に深すぎるので。
 不必要な情報を与えれば混乱のもとになるのは自明だ。今のやり取りを見れば証左ではありませんか」
「つまり、何時もの秘密主義って訳だ」
 吐き捨てたかぐらに涼介は困ったような顔を浮かべて言う。
「ではほんの少しだけ。
 力天使ラファエラは天使なのです」
「……は?」
「かぐらChang、チェスとかやる?」
「……ルールくらいなら。それがどうしたの」
 横から首を突っ込んだラプラスにかぐらは問い返した。
「チェスの定石じゃクイーンは適当に動いちゃいけない事になってる。
 まあ、横須賀基地におけるクイーンは文字通りラファエラChangな訳だけども」
「力天使の権能の分析は概ね済んでいる。アレは猛々しい剣の異名に相応しくもなくだ。
 より厳密に言うなら己の力を無数の配下に分け与える事で天使の軍団を大天使に、大天使の軍団を権天使に変えるような厄介な性質の持ち主だ」
「加えて、横須賀基地の物量の多くは知能の低い天使級ですからね。
 力天使の金看板、ついでに他指揮官級の首さえ取ってしまえば、物量さえも瓦解する――いや、瓦解出来る。
 しかし、ラファエラは賢い。状況は承知でしょう。
 故に彼女は決して前線には出ない。基地の司令室から単純な質量と力の差で此方を磨り潰そうとするでしょう。
 自分さえ無事ならば万に一つも起きない、という訳なら当然です。
 ……それで、です。私の言う所の腹案とは、このラファエラを方法でして」
 シュペルが補足し、涼介が継ぐ。
「……勝ちが決まっている戦いで引きこもっている司令官を倒す方法だって?
 涼介君は反則全開な暗殺の術まで身に着けてるのかい?」
「ま、出来なくはありませんが。主役はあくまでK.Y.R.I.E.ですよ。
 皆さんには私を信じて頂いてですね、何とか戦線を維持して――出来れば一時的にでも押し込んで頂きたい。
 そうすれば、時間が来れば。ラプラス君とプロフェッサーも居ますからね。
 一番いいタイミングで特別な魔法をお見せする事を約束しますよ」
「簡単に言ってくれるじゃないか。見てきたように」
「見てはいませんけど、に想像はつくのです。

 かぐらさんだって赤の他人の行動の予測はつかなくても、胡散臭く言葉遊びで真実を煙に巻く市長のやり方は良くご存知でしょう?」
 にっこりと笑った涼介にかぐらは逡巡した。
(またお得意のドヤ顔か。意味が分からない事を言って……
 信じるべきか? しかし、信じなくても状況は変わらない。
 いざとなれば涼介君と対決する事も辞さないが、彼は少なくとも何かアイデアを持っている。
 ……厭な男だ。これじゃ私は思い切る事すら出来やしない)
 かぐらから毒気が抜けたのを察した涼介は我が意を得たりとばかりである。
「戦いに犠牲は付き物――そういう言葉を否定はしません。
 どんなプランでも不測の事態は起き得るでしょう。送り出した仲間が全員無事に戻るとは私は思わない。
 ですがね、かぐらさん――私はベストを尽くす心算ではあります。決して市民を裏切りはしませんよ。
 愛すべき市民が私と目的を一にしてくれる、その限りはですけどね!」