
PM3:01
PM2:58、順調に見えていた状況が途端に混沌の渦に落ちている。
「……ッ!?」
目を見開いた『天槍の乙女』ラファエラ・スパーダはその大いなる異常事態に追われていた。
横須賀基地の本隊と正面戦闘を任せた能天使スティーリアの結界は氷獄の力を秘めている。スティーリアという天使は、酷く子供じみており、どうしようもない位の癇癪持ちではあったが、この基地の中でラファエラが使える戦力の中では一番の存在だった。それがどうした事か。
「……結界が破れている、だと?」
灰色の世界は既に溶け落ち、激戦を展開する彼我の上には澄んだ青空が広がっていた。
ラファエラはそれが白雪 涼音(r2p000037)という一人の少女が齎した奇跡によるものである事を知らない。
馬鹿馬鹿しい位に晴れ渡る空が小さくて、大切な願いの結実である事を知らなかった。
だが――彼女にとってそれは重要な話ではない。
横須賀基地を預かる天使の将としてはその光景が意味する所、スティーリアが敗退したという事実の方が問題だった。
(何をしている、スティーリア! ……まさか、遅れを取る等とは!)
予想外の状況にラファエラは臍を噛む。
苛立ちは後に回し、この状況が指し示す新たな情報を計算に加え、作戦を再構築する。
(変化は? 問題は? いや、これはスティーリアが敗れただけだ。
剣の権能がある限り、奴の有無等大勢には然程影響しない筈……!)
ラファエラの判断に誤りはないだろう。
受ける被害の大きさ――いや、スティーリアを失った時点でその被害は甚大なのだ――を考えればそれはやや正当化を含む強弁だったが。
最終的な勝敗だけを考えるのであれば、確かにラファエラの考えは間違っていない。
だが、しかし。
――ラ、ラファエラさ、ま……!
彼女の余裕は急にチャンネルに割り込んできた魔術的通信が届いたその時までだった。
声の主は言うに及ばぬアベラエルドだ。この能天使はラファエラの指令を受け目標をマークさせていた偵察役である。
(あれだけ慎重なアベラエルドがこんなに安直な連絡を……?)
瞬時の判断でラファエラに電撃的な――嫌な予感が走っていた。
背筋を舐め上げるような不快さは彼女の持ち合わせる第六感の仕業であったかも知れない。
――この状況は想定が……ッ!?
アベラエルドの報告は当を得ないまま。その声は潰れた蛙のように掻き消えた。
「どうした!? アベラエル――」
ラファエラの粟立った声に応じたのは。
――いやあ、手間が省けて僥倖だ。わざわざチャンネルを開いてくれたとは。
基礎からの構成と簒奪ならば後者の方が余程簡単というものですからねえ!
少なくともラファエラにとっては予想外の――そして誰かも分からない人物。
涼介・マクスウェル(r2n000002)その人であった!
「……貴様は、人類側の指揮官か?」
――はい。如何にも。マシロ市でしがない市長職を務めさせて頂いております。
名前を涼介・マクスウェルと申します。以後お見知りおきを。
「何が狙いだ……ッ!」
――マシロ市としては取り敢えずは貴女の撃破でしょうか。
尤もそれは私の仕事ではありませんがね。市長として私には市民が輝けるように計らう義務がある。
当面の手段としては例えば――貴女にその基地から出てきて頂く、とかね。
「馬鹿げた事を。人類なる塵芥の最後の抵抗力は今日消失するのだ。
それは貴様等が能天使スティーリアを倒したとて変わらない。
我が剣の権能は対個では無く、対軍の力なのだ。貴様等が置かれた状況は当然に理解していよう?」
――そうですね。このまま戦えば人類軍は敗れるでしょう。
人類史に残る天才はこの戦いの勝率を0.001258%と弾き出した位です。
ですが、その計算には普通にやればのアスタリスクがついている。
結論は貴女が前線に出てきてくれれば別になるでしょう。当然のようにね。
(……この男の狙いは明らかだ。私を乱戦の中で討ち取る事。
剣の権能を阻み、逆転勝利に繋げる事だ。
しかし……何だこの違和感は。コイツは私にそれを気取られて尚、結論を微塵も変えていない……?)
ラファエラは強烈な負荷と困惑に晒されていた。
だが、彼女は力ある天使。如何にも詐術を得意とすると言わんばかりのハッタリ等には応じない。
「出来ない相談だな――」
嘲笑を帯びたラファエラは言い切る。
「……こうして話を寄越す位だ。分かっているのなら、貴様の類推する天使の狙いは認めよう。
だが、結論は同じ事。我等は貴様をすり潰し、然る後にあの方を確保する。
安い挑発等に乗る心算は一切ない」
――嘘吐きのコツを御存知ですか?
「……は?」
――優秀な嘘吐きはまず自分を騙せる事を一とします。
そういう意味では貴女は余り適性が無いように思えますね。
「何だと」と気色ばむラファエラの一方で声だけの涼介は実に自然体のままだった。
――貴女の元々のプランならばそれで十分でしょう。
しかし果たして現況はどうか。貼り付けていた目は簡単に潰され、こんな想定外になる始末。
そして貴女達は探し人――刹那さん、と我々は呼んでいます――を長らくの捜索にも関わらずこれまでに見つける事は出来なかった。
意味する所は分かりますね。出来れば分かって頂ければ説明の手間が省けるのですが。
「……こ、の……ッ!」
繰り返すが彼女は相当に聡明な天使である。
その聡明さがこの状況の異常さを嫌という程に知らしめている。
例えばもう少し愚かであったならば気付かない事まで、彼女は全て気付いてしまう。
つまり、こういう事だ。
(この男は数か月以上の長きに渡り、あの方を隠蔽し。
隠密という能力に特化したアベラエルドを苦も無く看破し捻り潰した。
どういう手段か知れないが、少なくともその能力二点を有し、今私に選択を迫ろうとしている!)
この様子では至高より受けた指令の事も重々承知なのだろう。
アベラエルドが消失したタイミングを考えればマシロ市に彼が潜んでいた事も知っていた可能性は極めて高い。
泳がされたアレは役割を終えたから縊り殺されたに違いない。
悪魔とはいえ、戦闘に不向きな個体とはいえだ。
この男は、権天使を苦も無く捻る危険性を併せ持っている!
「プランに変更等有り得ない。貴様等はこの決戦を以って鏖殺される。
これは神意であり決定だ。何一つ変わらない。変えてはならない――」
動揺が無いと言えば嘘になる。
だが、ラファエラはそれでも人類側の弱味が自身に利する事を確信していた。
(マシロ市、と言ったか。あの拠点はこの黄昏の世界における最高レベルのものだ。
つまり人類はどうあれマシロ市に依存している。拠点がある以上は逃げられない。
守りに徹されれば多少は面倒だろうが、あの方がそこに在るのなら――一石二鳥は変わるまい)
人類の滅亡と勅命の達成はこの時概ね同一になろう。
人類は元より袋小路なのだ。長い時間をかけて復興した多数の人口、非戦闘員を抱える以上は死守の他に選択肢がない。この戦いで抵抗戦力を駆逐し、確実にマシロ市を攻略すれば市長とやらに出来る事は無い筈だ。
(故に私は動かない。座して居れば勝利が零れ落ちる事は有り得ない)
そんな彼女の思考を涼介の笑い声が遮った。
――ああ、もしかして。ラファエラさん、私がマシロ市に逃げ帰ると思っているとか?
「……………は?」
あっけらかんとした涼介の声はラファエラの間隙を突いていた。
逃げ帰るも何も、涼介という男は人類の指揮官だと言った。
数十万からなる最後の人類の命運がマシロ市にかかっている以上、指揮官に出来る事等一つしかないではないか!?
――特別に私のプランも披露しましょう。ラファエラさん、私はね。
通信越しで顔を見る事は出来なかったのだが、この時涼介は端正な美貌を心底楽しそうな凶相に歪めていた。
――もし、人類がこれ以上劣勢になるなら刹那さんを連れて逃げようと思っているのですよ。
一目散に、そうですね。世界の果てのその先まで。
権天使の監視を看破する力と、貴女達からも刹那さんを隠し遂せたこの力を以ってね!
(人類を見捨てるだと!? 人類の指揮官が!?!?!?)
ラファエラは目眩がした。
涼介の言葉はまるで全く本気のように響いていた。
もし、仮にこの言葉がハッタリで無かったとしたら。
この広い世界でラファエラは何らか得体の知れない強烈な異能を持つ涼介を当ても無く探し続けねばならない。
そしてそれは――苛立つ至高の勅命の達成が凡そ困難になる事を意味していた。
(どうする――)
ラファエラ・スパーダは指揮官である。そして不幸な聡明さを持っていた。
頭を過ぎったマリアテレサの顔が硬質の無興味に満ちている。
(これは、最早異常極まる。至高に御報告をするべきか……?)
しかしラファエラは自身の考えをすぐに自分で否定した。
――まさか貴女、食べ残しの処理の仕方を僕に尋ねる心算なんですか?
あの声がリフレインした時、ラファエラは瘧のような寒気に身を竦めた。
「……っ……!」
ラファエラは想像の中のテレサの嘲笑にガリ、と強く爪を噛んだ。
怒りではない。根源的な恐怖が在る。
報告する事がただ怖い。マリアテレサと一言たりとも交わしたくはない。
やはり、自身の判断で的確を取る必要があるのだ。
的確を取る必要がある。的確を取らねばならない。一つも間違いも無く成功以外は認められない。
黄昏の人類を相手にした戦いも、子供のお使いと嘲笑されるこの探索も。
失敗は許されない。
失敗は許されない。
絶対に、何をしても許されない――
――まさか、そこまでの無能ではありませんよねぇ
絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に!!!
「……………」
荒れた爪先に視線を落としたラファエラは改めて考えた。
それでも気を落ち着け、栄えある力天使として何をすべきかを取り戻した。
(……拠点の保持、軍の維持は当然だ。そんなものは命令ですらない。
一方であの方の確保は至高による勅命だ。それは何にも優先する)
どちらか一方ならば勅命を優先せねばならない。
無論、涼介の言葉がハッタリである可能性は高いと考えたが、それを言うならばラファエラの出撃も別に敗北には直結しない。人類が0.001258%と宣った勝率が誤差程度に変動したとて、天使の勝利は変わらないのだから。
それに。
(異能の持ち主には属性と系統がある。私が剣を有し、アベラエルドが秘匿を司るのと同じように。
ならば、アベラエルドを看破し、あの方を隠すこの男の本質は戦闘には無い筈だ)
敵の得体は知れないが、ラファエラは武闘派である自分が本当の力を使えば制圧は可能であると考えた。
戦ってはいけない天使の意味を人類はきっと誤解しているだろう。
「ラファエラ・スパーダを侮った事を精々後悔するがいい……!」
それはつまらない捨て台詞に違いなく、憎悪に満ちた声を漏らしたラファエラに涼介は笑った。
――はい。お待ちしております。
生憎と出先です。美味しいお茶とケーキはご用意いたしかねますが。