欧州にて
「おい、ディーテリヒ」
乱暴な口調で自身に声を掛けた魔人に舞台俳優のように美しいその男はゆっくりと面を向けた。
優雅極まるその所作は滅び去った世界の頃の侭であり、尊き血統が服を着て歩くような完璧な姿は人類の落日を今も思わせない。
但し、彼等が佇むその場所はかつてのベルリンではない。人類の黄昏と共に崩壊し、空席だらけになった地下聖堂はまるで伽藍洞そのものだった。
「不躾にどうかしたかね、倫敦の伝説よ」
「どうかしたじゃねえよ、演劇部長。
アイツは――あのクソ爺は何処行ったんだ?
まだまだあっちこっちにクソ怠い羽虫がうようよしてる状況でよ。あの野郎の仕事は雑魚共の露払いだった筈だぜ」
ナチュラルに芝居がかったディーテリヒ・ハインツ・フォン・ティーレマン(r2n000006)の回答がお気に召さなかったらしく、不満の様相も露わに白髪の吸血鬼はそう言った。確かに彼は倫敦の夜を震え上がらせた恐怖神話そのものであり、人類史上の生きている伝説である。だが、彼は彼自身以外によってその伝説を揶揄される事を好まない。
――ねえ。貴方は伝説になってよ――
遠い日に交わした色褪せた約束は他の誰のものでもないから。
「卿の気に入る回答をする事は難しいな。
だが、その点を考慮せずに事実を述べるのなら彼女は極東へ赴いたようだ。
単純事実に対しての類推は幾つか可能だが、卿はそれを聞く事を望むかね?」
「ああ、大いにな。まあ、内容次第じゃあのクソ爺には痛い目見て貰う事になるだろうがよ」
「……………」
魔人の尊大不遜な物言いにアリシス・シーアルジア(r2n000007)の柳眉が不快そうに歪んでいた。
自身より上位の使徒級と盟主の会話に自身が口を挟むべきでない事は重に理解していた。
しかし同時に。たかが使徒が至高の高みより逆十字を統べる獣に対等な口を叩くのも彼女は同様に理解し難い。
無意味な仮定をするならばアリシスに同じ使徒位があったなら、彼女は彼に決闘でも申し込んでいた所だろう。
「……あん?」
「いえ、何でも。お気になさらず、ジャック様」
閑話休題。
「――では、私の見解を述べるとしよう」
瞑目したディーテリヒは粗野なジャックの口振りを面倒がる事も無く落ち着いた調子のまま口を開いた。
「極東――日本で、山が動いた」
「山ぁ?」
口の端を歪めたジャックにディーテリヒは頷いた。
「長らく小康状態を保っていた日本エリアに力天使級以下、中級天使の数体が顕現し、明確な活動を開始していた。
黙示録はドゥームス・デイの訪れの先、この事象も予見していたからそれは確実だ」
この世界において青天の霹靂を予期していたのは涼介・マクスウェル(r2n000002)とこのディーテリヒの二人だけだったと言えるだろう。
落日の前に彼が日本に赴き、様々に見聞したのはあの国がこの先に特別な運命を背負うと神器――即ち、絶対の預言に書されていたからに他ならない。旧世界の裏側において絶大にして絶対の存在を示していた秘密結社Baroqueの盟主は故に日本を運命の震源と見做し、あくまで特別扱いしていた経緯がある。
「……へえ。それで、その中級天使がどうしたって?」
言葉とは裏腹に少しだけ表情を引き締めたジャックにディーテリヒは続けた。
「驚くべき事実は日本が世界に先頭して組織的復興を遂げている事だ。
いいかね? ジャック・ザ・リッパ―。
結論から言えば、日本――マシロは個の力のみに拠らぬ組織戦闘で力天使を降したのだ。
これは日本が、卿や私、或いは彼女のような特別な個に関わらずに、集合の力を再び獲得しつつある事実の提示と言えるだろう。
我々は時に取り残されたこの世界の徒花に過ぎないが、彼等の取り組みはまさに人類史の復活に他ならない」
天使との激闘と、その後に訪れた世界変容と強欲な調整による激流はこの世界の有り様全てを変えてしまった。
ディーテリヒの言う通り、調整を逃れた極少数は存在していてもそれは世界の黄昏を食い止める礎等にはなりはしない。
だが、マシロ市はどうか。再び組織的に力を取り戻した人類が反攻の鏑矢を放ったと思うならその意味は。
このベルリンが極少数の魔人の存在のみを理由として、人類の支配圏として存立しているより余程大きな価値を持とう。
「相変わらず回りくどい物言いが大好きだな、演劇部長」
吐き捨てるようなジャックの二度目の揶揄にアリシスの眉が吊り上がる。
「可愛いアリシス。くれぐれも話の腰は折らないでおくれ。
……リクエストに応えて要点を急ぐのなら、彼女の動機は視察になるだろう」
「視察ぅ?」
瞑目したままなのに自身の機微を感じ取っていたらしい主人にアリシスの白い肌に朱色が差している。
頓着しないジャックは予想外の言葉に目を見開き、
「んじゃあ、あのクソ爺は物見遊山で日本まで遊びに行ったって事かよ。やっぱり死刑で十分だぜ」
「旧Baroqueの長として面倒事は避けて貰いたいのは山々だが。
……聞き給え、ジャック・ザ・リッパ―。彼女の行動には多少の弁護の余地もある。
そして同時にそれは卿に全く責任が無いと言える話でもない」
「……はあ? どういう意味――」
「――マシロが降した力天使は剣の権能だ」
「――――」
ジャックの目が見開き、彼は今日で一番驚いた顔をした。
「このベルリンでかつて卿が仕留め損ねた相手だよ」
「ああ。仕留め損ねただけだがな。
雑魚をしつこく振り回しやがってなあ、俺様は対人主義最強なんだよ。
……しかし、あのクソ虫がかよ。け、殺し損ねたってか。ムカつくぜ」
いい女をバラす事に格別の拘りを見せる吸血鬼の口調は言葉とは裏腹に今日一番感心した調子を帯びていた。
かつて――何年前だか忘れたが世界が滅びゆく過程の出来事だ――欧州で相まみえたラファエラは少なくともジャックの記憶に強く残る程度には厄介な天使であったから。
「んじゃあ、爺は俺様が殺り損ねた天使を潰したマシロに興味を持って、って訳か。
……チッ、ぶっ殺してやろうかと思ったが……」
「ジャック様から逃れた相手を仕留めた相手に興味を持つのは致し方ありますまい。
ましてやあの方は貴方様とはまた別の方向に、酷く自由な――生粋の面白がりです。
貴方様は使徒七位。残存する人類で最強の一角なれば、誰であれマシロの顛末にはそそられましょう」
「……………」
「旧世界の歴史上ではドイツと日本が同盟を結んだ事もありました。勿論敵対の方もです。
まあ、野垂れるかすり潰れるか。萌芽の先行き等、栄光の逆十字の知る話ではありませぬ。
彼等に価値を見出すかはディーテリヒ様の導き次第ではありますが」
暗に「情報収集程度の価値はある」と言い含んでいる。
主人の意向を明敏に察するアリシスがそう言い添えれば、ジャックは不愉快そうに鼻を鳴らした
言葉を挟むのならばこの瞬間で、絶妙に水を差した彼女の言葉は剣呑な空気を確かに和らげている。
「……んじゃあ何だ、ディーテリヒ。結局、爺が居ねぇ以上。野郎の受け持ちも含めて俺様に殺れってか?」
「神は七日で世界を創世したと聞いていたが、天使連中に日曜休むという発想は無いようだ」
「ああ、そうだな。倫敦の工場は年中無休だ、貧乏人には」
ディーテリヒらしい肯定にジャックはうんざりした顔をする。
やや活発化を見せる天使連中は特異点と化したベルリンの襲撃を繰り返している。
対少数を殺す事を最得手とするジャックにとっては、雑魚散らしが居ないのは面倒極まりない話ではあるのだが――
「それとも。卿は羽虫の羽ばたき如きで私に出番を要請するのかね?」
「――――は!」
何の感情も交えずに、されど事実の提示で挑発めいたディーテリヒをジャックは強く鼻で笑い飛ばした。
面倒なだけだ。最終結果は一ミリさえも変わらない。
「ジョークは辞めろよ、部長さんよ。俺様を誰だと思って言ってやがる」