葉山島
「順調だ」
王条 かぐら(r2n000003)の短い言葉には何時にない満足と安堵感が混ざっていた。
運命の日が繋がってより此方、座標消失を経た流民の現代への合流により爆発的に増大したマシロ市の運営は火の車であった。
表向きそういう姿を見せなかったのは市庁の努力の賜物であり、欺瞞による安心の塗固は涼介・マクスウェル(r2n000002)のみならず、かぐらも同意した絶対の方針だった。
マシロ市の危機をありのままに市民に伝えれば混乱と動揺、最悪を考えるならそれ以上の事態が起きても不思議では無かったからだ。
それだけ――それ位に。横須賀基地奪還作戦は人類の、マシロ市にとっては必要不可欠な大事業だった。
多大な犠牲を払いながらも、辛くもそれを成し遂げた現状は流石のかぐらにも人心地つかせるだけの意味を持っている。
「人類の支配圏は確かに拡大しましたからね。マシロ市の高度システムを外に移植するのは困難だが」
「一先ず安全な土地を確保出来た意味は大きいよ。市民を住まわせるにはまだ足りないものが多過ぎるけど。
少なくともアーコロジーに頼らなくても、農地運用位は出来るだろうさ。
……まあ、野良天使が出たりしないとも限らないけどね。
それ位の問題なら、レオパル君――キャンプ・パールコーストの通常戦力が駐屯する事で対処出来る」
「無論だ。命に代えても放たれた人類の鏑矢を折らせるような真似はしない」
「だよね?」と水を向けられたレオパル・ド・ティゲール(r2n000021)は強く大きく頷いた。
「幸いに横須賀基地には多くの火器が残されていた。
我々はレイヴンズのような異能は持ち得ないが、それでも天使を殺した数は彼等を上回る。
多くの市民や若者にそんな事をさせているそれそのものが痛恨の極みだがね。
優秀な軍人は常に持ち得る手札の範囲で最適を探すものだ。
お膳立てを貰って市民へ更なる負担を強いる事等、キャンプ・パールコールトは認めんよ」
「……貴方も本当に優秀な方だ」
レオパルの力強い言葉を受けた涼介は珍しく皮肉気を失っていた。
横須賀基地に打ち捨てられていた多くの火器を接収出来たのは幸いで、計算の内だ。
歴戦を戦い抜いたパースコーストの勇士達は並の天使に怯み、遅れるような連中では無い。
重火器であっても、中級以上の天使に対抗するのは中々に困難だが、少なくとも増派が無い限りは周辺より力天使級や能天使級は完全に駆逐されている筈だ。
「ともあれ、バックアップは我々に任せてくれ。受け持った以上は必ず、やり遂げる。
尤も、過信はしていない。必要が生じればK.Y.R.I.E.に協力を仰ぐ事も躊躇わないと約束しよう」
レオパルの意志は鋼のように堅い。
この男は安いプライドで生きていないのだ。その癖、誰よりも誇り高い。
成る程、この勢力圏の拡大は、実に大きな一歩だ。
目下の問題を改善させると共に、その先に大いなる可能性を提示し得る重要な勝利に間違いない。
「かぐらさん。だから、言ったでしょう? この乾坤一擲は必要不可欠だった、と。
少なくともこれより人類が復権しようと思うのなら、遅かれ早かれぶち当たる問題だったのです。
正直に言えば私には大体分かっておりましたから、流民の流入は退路を断つという意味でも最も適した機会だったという訳です」
「退路を断っていたのは人類だけだろう?」
「何とでも。しかし私は契約を守る悪魔です。少なくとも横須賀基地での結果には満足しています。
ですから、この先も私と人類、マシロ市が良い関係で居られる事を望んでおりますよ」
(まるで、テストされてるみたいだね)
嘆息したかぐらはデスクの涼介の顔をじっと見た。
にこやかに笑う彼は相変わらず人非人のような様相であり、最近に到ってはかぐらにはその本性を隠しもしない。
(……まぁ、能力の信用は出来る。それは間違いない)
魔法とやらの効果は覿面だった。
実際、横須賀基地の戦いは彼のアシスト無くば完成はしなかっただろう。
しかしその点への感謝と知り過ぎている事への疑念は別問題である。
とは言え、かぐらは現時点での追及が無意味である事を知っていた。
雪代 刹那(r2n000001)の件や自身の弱味についても一定に語った涼介の言葉が極めて大きな譲歩である事を理解しない程に愚鈍ではない。
言ってしまえば人類の立ち位置はまだそこまでというだけの話なのだろう。
悪魔に口を割らせるにはもっと、もっと――赫々たる結果が必要なのだ。
「人類を侮るな」と天使にも涼介にも思い知らせてやる必要がある――
「……それで? 報告はそれだけですか?」
「いいや。重要な話がまだあるよ。
涼介君も把握しているだろうけど、マシロ市は先の勝利の余勢を駆って鎌倉方面への進軍を企図している。
ゆっくり休む暇も無い事には苦笑するしかないけど、年を明けて準備が整ったらK.Y.R.I.E.は更なる行動を開始する心算だ」
「まあ、作戦準備の関係でクリスマスとお正月位は休暇に出来たのは幸いでしたね」
「……非常時とはいえ、心苦しいのは確かだからさ。
涼介君が思い切り協力してくれたのには――それだけは素直に感謝してるよ」
「ホントに」と念を押したかぐらの「それだけは」に肩を竦めた涼介がマシロ市のリソースを派手にぶっ放したのはかぐらにとって予想外の出来事だった。
クリスマスとお正月を皆で楽しませようと物凄い出費を許可するなんて、この合理主義者の理解の外だと思っていたからだ。
……まあ、自分自身が気に入った美人とデートするとかなら糸目をつけないのは分かっているのだが。
「それで?」
「ああ、そうだ。それで私達は鎌倉方面進軍の地ならしとして威力偵察を始めている。
問題を切除しながら情報を獲得するフェーズだ。本隊の動きは慎重に進めないといけないからね。
そこで、おかしな状況を発見した」
「ほう?」
涼介の切れ長の瞳がグラスの奥で細くなる。
少なからずかぐらをも値踏みしているようでもある。
だが、かぐらはそれを承知で構わない。
「理論上、絶対に起きないとは言い切れない」
ただ、その状況はどうあれ確かに不自然なものだった。
「だが、人為的な理由があるとあたりをつける方が自然だよ。
知ってると思うけど、葉山エリアの一帯は天使の襲撃で塩の海に沈んでいる。
大半がそういう状況にあり、マシロ市近辺のような安定した状態を保っていない。
だけど、塩の海の真ん中に一画にだけ。ぽつんと浮かぶ島があった」
涼介は笑った。
「馬鹿げた状況ですね!」
「文字通りの島だよ。周りが沈んでいるのに一区画がほぼ完全な形で残っている。
もっと単純に言うならバカでっかいお屋敷を中心にその辺だけが無事って訳だ。
……涼介君にクイズを出してもいいかな?」
「はいはい。分かっております。それが何処なのか、何なのかを当てろとかいう話でしょう?」
どうやらすぐに合点が済んだらしい。
眼鏡を外した涼介は「成る程、成る程」と頻りに納得しながら簡単なクイズの答えを言う。
その調子は、これよりどう転ぶか分からない怪情報を面白がっているようでもあった。
「葉山島は、旧一菱邸そのものなのではありませんか?」
「……まあ、涼介君なら分かるよね。私でも彼等は知ってる」
一菱とはこの日本の裏面に名を轟かせた武門である。
西の紫乃宮と並び、剣呑な方面には良く良く良く良く知られた名前であった。
「ええ、まあ。私もね。
落日当時、内閣危機管理監時代に彼等に接触し、協力を仰いだ事があるのです。
今の状況は知れませんが、葉山ならその異常も幾らかは納得がいくものです。
……はて、問題は。これは朗報になるのか、それとも何になるのやら……」