悪徳と美徳の果実
「――――」
息を呑んだ少女は、蒼褪めた月よりも美しい。
病的なまでの抜けるような白い肌は特別で。
悲しい程にかつての少女の活発な姿に繋がらない。
「……何て、言いました?」
艶やかな唇は酷く寒々しく、生気が薄い。
そして、そこから零れ落ちる声もまた、怖気立つ異質を帯びていた。
「今、私。時期が尚早だ、と申し上げましてよ」
ころころと笑った異形の女は天使よりも禍々しいいでたちだった。
その日、酷く特別で酷く凡庸な天使は、出会ってはならない異質に遭遇していた。
暴れるばかりが芸の愚かな下等天使であったならばその意味に気付かなかっただろう。
しかして権天使はそうでは無かった。
この時、自我を確立し、中級天使への位階を登ろうとするが故にイヴは事実に気付いていた。
目の前の人間は慈悲の刃のその先に無い。
いやさ、むしろその命運に匕首を突きつけられているのは天使の方なのだと、理解せずにはいられなかった。
「私を、殺すのですか」
マシロ市――という場所に向かう筈だった。
そこには大切な人が居るから。助けなければならない人が居るから。
でも、異形の魔術師は「それは尚早だ」と邪魔をする。
「――私を、殺すのですか?」
二度目。
少女時代と同じ声で問い掛ければ、「ほ、ほ、ほ」と少女のなりの異形は笑う。
「もし、貴女が熟する前に果実を落とそうとするなら、その答えはOuiになりますわ。
しかし同時に――順と価値を知る理性を持つのなら答えはNonにもなりましょう?
ええ、私。人類と天使の戦争自体には余り興味はございませんの。理解って?」
「分かりません」
権天使は少女らしい素直さで異形の魔術師を見て実に素直な返事を返した。
ミセリコルデは人類に突き付けられた慈悲の輝きだ。
それに抗う人類は確かに彼女を敵とするべきなのに――この遭遇戦において彼女はOuiでありNonであるとも云う。
恐らく絶望的な力の差があるのは確実なのに、この人間は天使に殺意を向けていない。
「良いこと? 天使のお嬢さん。私はね、人間賛歌が見たいだけなの。
いいえ、より正しくはそれを作品として残したいだけなのよ。
淀んで、腐って、蟠る――人間の情愛は、割り切れぬ善悪は痛くて甘やかで心地いい。
彼岸と此岸の両向かいに在る美徳と悪徳の鏡合わせは!
私の空虚を彩る、何よりのスパイスなのです。ええ、ええ――」
長広舌はまるで謳い上げるようだった。
「痛くて辛くて苦しくて。
叩かれて、叩いて、泣いて笑って気持ち良くって――それで、やっと人間なの。
人間性をそんな外付けで確認した時、私は何より滾るのです。
作品ならぬ天使等、生かしておく理由はありませんけれど。
見込みのある仔猫ならば、ミルクの一つでも差し上げたくなるというものですわ。
さあ、お嬢さん。切っ掛けをあげましょう。
私の手を取る? それとも、死神のカードがお好みかしら。貴女はどちら?」
異形の魔術師は全ての訳知り顔でそんな風に嘯いた。
人類圏の未来より、遍く人々の命運よりも。
この女は天使の持つ運命の方に重きを置いている。
退屈な敗れ方をするならばこの場で消すと傲慢に宣告し、そうでないならば切っ掛けをくれてやると笑っている。
「……………」
ミセリコルデ・イヴは脳裏に薄ぼんやりと友人の顔を描いた。
そして、それから最愛の兄の顔を思い出した。
いけない、と思った。こんな世界にあの人達を置いたままにしてはいけないと強く思った。
茫洋としたままの自我は胡乱ながらも遠い日よりこの世界を赦してはいない。
こんな世界、あってはならないのだ。優しい人が傷付き、嘆いても戻らない世界なんて、きっと。
きっともう、もうお兄ちゃんは居ないのだから!
権天使で足りないなら、もっと。もっと。手を伸ばせば、そこに力が在るのなら、もっと、もっと。
「うふふ、いいお顔。では、私が少しだけ手伝ってあげます。
いいこと。絶対に事を急がないこと。素晴らしい実りには多くの時間が必要ですわ。
熟れて腐り落ちるその寸前こそ――果実は、私の詩作はきっと誰より甘くなる」
異形の魔術師は『事象』を作り変える事に長けている。
彼女の与える切っ掛けは唯の権天使をより禍々しい何かへと昇華させる事だろう。
「貴女の願いはきっと叶います」
時を待てば、運命が熟せば。それまで、イヴが力を溜める事が出来たのなら。
「美しく大輪に悪徳の花が咲く。美徳の涙は地を濡らす。ああ、それは何て素敵な事でしょう!」
魔術師の来日理由は二つあった。
一つは魔人を出し抜いたマシロ市を見たかったこと。
そしてもう一つは黙示録が指し示した面白い天使の存在だ。
この二つは密接に絡み合い、悪趣味の擬人化のような作家の大願と成る。
「……分かりました。少し、待ちます」
ミセリコルデ・イヴの言葉に『アル』はにっこりと笑顔を浮かべた。
彼女は決して人類の敵ではないけれど、芸術家である。
その為の手段を選ばずに、望まぬ軟禁をされた位だから――人類の味方を逸脱する事も吝かではなかった。
※マシロ市での特別レセプションが盛況に終わったようです!