
楽園の片隅で
美しく反響する天上の調べは素晴らしい聖堂に見劣り……聞き劣りする事はない。
Callas(r2p005677)の声量は彼女が元より持ち合わせる天与に違いなかった。
彼女が歌う時以外は特殊な加工を帯びたフェイスベールを外す事がないのが行き過ぎた才能が普通のお喋りに不便をきたしてしまうからだ。
――――♪
目を閉じ、主への敬愛と思いの丈を歌い切り、一礼をしたCallasにその男はパチパチと少し芝居がかった拍手をした。
「大変結構。今日も君の歌声は素晴らしい」
長い髪、流麗な美貌、豪奢な衣装に身を包むその天使の羽は四枚だ。
主人の何気ない言葉に頬を赤く染めたCallasの瞳は披露の興奮と賞賛の言葉に幾分か潤んでいた。
「これならば、その内我が至高にお聞かせする事も出来るかも。
その素晴らしい栄誉の日の為にこれからも良く精進をするように」
しかし、Callasの表情が一番の幸福を帯びたのはカイロスが別の女の事を口にした時だったかも知れない。
「それは素敵なお考えです、カイロス様! ああ、至高に歌を捧げる事が出来るなんて!
カイロス様の――マリアテレサ様のお役に立てるかも知れないなんて、何て光栄なお話でしょう!」
「ああ、ずるいなあ。羨ましいなあ! ボクも歌の練習でもしておけばよかった!」
そしてそれは歌姫たるCallasだけではなく、カイロスに侍るように横に居たタイム(r2p005528)、デキマ(r2p005527)二体の天使も同じだった。
楽園の片隅で即興に開かれたプライヴェート・コンサートは確かに彼の為だけに捧げられた聖歌である。天使の名を冠した幾多の存在の中でも熾天の領域に限りなく近い――智天使の位階を与えられたカイロスは楽園を我が物顔で牛耳る至高の一の側近として知られる存在である。
「我が至高は実のある有能な献身だけを望む方だ。粗相をするような天使はとてもお会いさせられないからね」
「承知しております。我が身、我が命に代えてもカイロス様のお顔に泥を塗るような公演はいたしませんわ」
Callasの自信満々な笑みは彼女の抱える幸福感と自己肯定感を表しているようだった。
この楽園においてマリアテレサとの面談は絶対にして最悪の出来事であると多くの天使が認識している。
しかしてカイロスに侍る――より正しくはカイロスとマリアテレサを至高とする彼女等一派の天使からすればそれは至極愚かな認識に違いなかった。
「私達もカイロス様と至高の方に是非、御奉仕を――」
「――良い提案だが、その前に私に一仕事がありそうでね。
残念だが、君達を至高に謁見させるのは少し先の話になりそうだ」
負けじと身を乗り出したタイムをカイロスがやんわりと制した。
「……お仕事、なの? 他ならぬカイロス様が?
……………マリアテレサ様が何処かの世界でもお滅ぼしになるのでしょうか」
カイロスはデキマの至極当然の疑問に「いいや」と首を振った。
デキマの疑問はもっともである。基本的に楽園に鎮座するマリアテレサが直接動く事はないのだ。
他の有象無象は割り当ての世界の攻略に精でも出しているのだろうが、マリアテレサだけは違う。
彼女の仕事は楽園に在る事であり、とんでもない例外の後始末こそがその本質なのだ。
まるでチェスさながらに動かないクイーンたるマリアテレサは動いた時そのものが大事件という存在ですらある。
そして当然の事ながらこの楽園を揺るがすような出来事は長きの時間に渡っても殆ど起きよう筈もない。
(雑用等に御手を煩わせて良い方ではありません)
タイムは当を得ない主人の言葉に深く頷いた。
(あのお方が動くような事があるとするならば、それはあの時のような事でも起こられなければ――)
「――仕事を命じられたのは私だけ。
しかし、我が至高は仕事を放ってへらへらとした顔等を見せれば君達の頸を刎ねてしまう。
……いや、それも正直素晴らしい光栄だとは思うがね。楽園の歌が聞けなくなるのは余り愉しくはないな」
カイロスは半ば以上本気でそう言った。
彼はマリアテレサを誰より正確に把握しながらも陶然とその暴挙を受け入れている。
子飼いの天使の命運よりも主人の気分を優先する様はまさに狂信的であるが、この場には一切の問題は無いと言える。
三体の天使達は笑顔のままだ。
カイロスに仕える下級の天使達もまた概ね彼と同じ価値観を有している事を示している。
「それにしても、御身がお仕事を命じられる事自体が大変な話ではあります」
「まあ、ね」
少し心配そうな顔をしたタイムにカイロスは曖昧な笑みを浮かべていた。
「いや、手強いな。この仕事は。この素晴らしい楽園を舞台に、かなりの打ち手との勝負になる。
我が至高は私の事情には頓着しないだろうが、決して分のいい勝負ではないな。
だがね、結論は最初から一つなのだ」
カイロスは涼しい顔をしたまま言った。
Callasのお株を奪うように愛を謳った。
「至高が望まられたなら、求められたならそれは達成されねばならない。
私はこれまでもそうしてきたし、これからも決して変わらない。
私という存在はそうする事で――あの薔薇のような唇をほんの少しだけ綻ばせる事が出来る。
全ての造作、紛う事無く神の作り給うた我が至高の傍にいる事だけを赦される。
そんな地上には無い、文字通り天上の奇跡の為なら、まあ――この程度の仕事なんてどうって話でもないのだから」