
甘香の中で
薄暗い地下洞の座敷牢で甘縄 白菊はぼうと呆けていた。
思考は蝋燭の明かりの様に揺らぎ纏まらない。
背を這う寒気に傍らの着物をたぐり寄せる。
されど、袖を通すのも億劫で、力なく白い指先は畳の上に落ちた。
着物を纏うにも手首や足首に巻かれた赤い縄が邪魔をする。
此所の所、毎夜行われる儀式に白菊の体力は消耗していた。
終わった後はこうして呆けてしまうことが多くなったのだ。
大事な話をしなければいけなかったような気がするのに。
「黄蓮様……」
座敷牢の中に響くのは白菊の声だけだ。
儀式が終わるといつの間にか黄蓮は居なくなってしまう。
代わりに叔父の泰次が居ることもあるが、大抵は一人で目を覚ました。
寒さが身に凍みる。
さらりと流れた長い髪の間から、白く華奢な背が見えた。
その背に小さく描かれた蝶の入墨は自由と解放の象徴。
変化と成長を願い刻まれるものだ。
白菊はその入墨に爪を立てる。
何処にも行けやしないと嘲笑いながら、死んだ信我が白菊に彫ったもの。
白菊にとって呪いの印だ。
「黄蓮様は言ってくれました……僕を愛していると。
甘縄のお役目を頑張れば、もっと愛してくれると」
纏まらない思考が口から漏れる。
目眩のように重心が揺れて、白菊はぐったりとその場に倒れ込んだ。
畳の上に白い髪が広がる。
着物に忍ばせてあった匂い袋が飛び出した。
以前、夏目 玖郎(r2p005710)から貰ったものだ。
匂い袋に手を伸ばし吸い込めば、少しだけ思考がクリアになる。
一緒に持ってきていた使い古しのマフラーに顔を埋めた。
これは鳶(r2p002991)が貸してくれたもの。
何時もより儀式が苦しいと感じる。
外の人に会うまではもっと微睡みの中に居たのに。
「でも、外の人達が言うのです。お役目と黄蓮様の役に立つことは分けて考えなさいと。どうしてでしょうか。黄蓮様は言いましたよね。お役目を頑張れば黄蓮様の役に立つと。だから僕は黄蓮様の為に苦しいお役目に耐えてきた」
ほろりと涙が零れる。頬を伝い、畳の上に染みを作った。
自分で考えなければならないと強く諭す志賀谷 翔子(r2p000059)の声を思いだす。
他にも、沢山の人が白菊に声を掛けてくれた。
その全てを胸に刻んでいる。
「僕は何方を信じればいいのでしょうか」
黄蓮を疑っている訳では無い。
しかし、降り注いだ疑念は拭えなかった。
黄蓮が偽物だなんて。そんな怖いことを。
「……でも、外の人達が言うのです。最近、黄蓮様と会うときに不思議な香りがしなかったかと……ちょうど今みたいな匂いです。この匂いがすると黄蓮様が僕に会いに来てくれるんです。だからこの匂いは好きです」
――好きなのに。どうして?
疑ってしまうのが怖い。
黄蓮を。友達になってくれるかもしれない人たちを。
物音がして視線を上げれば、黄蓮の姿が見えた。
儀式の後、帰ったかと思っていたが残ってくれていたのだろう。
強くなった甘香に思考が解ける。
彼が居てくれることが嬉しい、と思考が塗りつぶされていった。
「黄蓮様。まだ居て下さったのですね。申し訳ございません。まだ少し身体が怠くて……もう少しこのまま横になっていてもいいですか?」
「もちろん構いませんよ。まだ寝ていなさい」
黄蓮は白菊の傍へやってきて頭を撫でる。
「ああ、やっぱり黄蓮様は優しいです」
卑しいと言われてきた自分を愛してくれる。優しい黄蓮。
「……僕も黄蓮様を愛しています」
――――
――
勤めの呼び出しに応じ本宮へと足を運んだ白菊は、廊下の向こうから佐竹黄蓮と巫女が歩いてくるのを見つける。
近づいてくる黄蓮に白菊は胸を高鳴らせた。
何か声を掛けてくれるだろうか。昨晩の様に愛を囁いてくれたら。
そんな事を考えながら近づいてくる黄蓮を待った。
一歩、一歩が待ち遠しい。
恋する乙女のような眼差しで白菊は黄蓮を見つめる。
されど、黄蓮は白菊を一瞥したあと、何事も無かったかのように通り過ぎた。
どうしてと思うよりも前に、白菊は黄蓮が仕事中であることを失念していたと自責の念に駆られる。真面目な黄蓮が仕事中に私語を話すなど考えられなかった。
黄蓮の背にぺこりとお辞儀をした白菊は進行方向へ向き直り歩き出す。
「何やら、熱い視線を送られておりましたね」
巫女はくすりと笑みを浮かべた。
「……ふむ? 気づきませんでしたな」
彼女の軽口には辟易するが黙っていれば其方も面倒になる。
「おや。甘縄を囲っていると聞きましたが」
「まさか。誰がそのようなことを。甘縄に微塵も興味はありませんな」
「ほほほ、噂とは尾ひれが付きますね」
黄蓮は嫌悪を滲ませながら、噂話も大概にしろと内心舌打ちをした。