
嵐の後の夜
大怪物クラーケン。
大破局以降、この国の海を天使のものたらしめている原因の一つである、規格外の巨体を誇る水棲変異体。
未だ全貌は未観測ながら、断片的な外見情報から、蛸か烏賊のような外見をしていると想像される。
それは恐らく天使とは直接関係がない。
この状況自体を生み出したのは天使の襲来以後にこの地球に訪れた破滅的な変異だからだ。
だが、何れにせよその存在は天使に利し、人類の海洋へのアクセスを遮断した。
旧時代に残された記録にはレオパル・ド・ティーゲル(r2n000021)の厳めしい顔に深い皴を刻む理由に足る屈辱と苦味ばかりの事件が記載されている。
「――……」
レオパルは、キャンプ・パールコースト基地の窓から望む海を隻眼にて睨む。
深夜の、闇を煮溶かしたような黒い海は嘘のように穏やかな眠りの気配に沈んでいた。
あの日――後に語るなら地獄としか呼べないような――撤退戦で艦隊と共にマシロ市へ向かう最中のことは、昨日のように思い出せる。巨大な艦をまるで風呂場で子供が遊ぶ玩具のように激震させた、途轍もない触腕。空中で真っ二つに割られた船から、バラバラと塵芥のように海へ落下していったのは……あれは……全部、人間だった。
なけなしの戦闘機は、在庫切れのミサイルは天と海を割く無数の腕に叩き落とされ。
巻き起こされる巨壁が如き波濤が、民間人を乗せた船を嘲笑うかのように呑み込んでいた。
不測を突かれなければもう少しマシだったかも知れない――だが、結果はどうか。
人類は詳細な事前情報のある戦闘に慣れ過ぎていた。だからあれは交戦とすら呼べない蹂躙劇に成り下がったと評価せざるを得なかった。
数多の絶望を知り尽くしたと思っていた人類の残滓を嗤いながら磨り潰したアレを更なる絶望等と称する事は生温い。
壮絶な状況の中、必死に指揮を飛ばしながら――無我夢中で死に抗いながら――レオパルは、あの時ほど無力感に苛まれたことはない。
繰り返す。まだしもあれが居ると事前に分かっていたならば、まだ打つ手もあったのだろうが――
(いや。今更、言い訳だ)
幾ら悔いても過去をやり直せないことは、ヴェテランならば誰もが嫌なほど知っているだろう。閉じた目を、開く。振り返る先には、若い見た目ながらも古兵然とした男が、一人掛けソファに甲冑が如く座していた。その服装、そして胸の階級章が、彼が『海軍の将官』であることを語っている。
「――奴が、マシロ市近海で観測された、と?」
その声も、その目も、さながら仇敵を見つけた復讐者。常ならば優男といった艶気があるのだろうかんばせは、今は敵を前にした戦士そのものだ。
「ああ、コマンダー九相寺」
レオパルが頷く。司令官と呼ばれた通り、この男――九相寺・大志(r2n000122)は、海上自衛隊において超常現象に対応する秘密組織『特務艦隊』の司令官であった。
「クラーケン……」
大志は白手袋の指先で、トン、トン、と肘掛けを叩く。超常指定:甲級掃討作戦――太平洋で行われたその海戦で、大志もまたクラーケンと相見えていた。結果がどうなったのか、あれが健在であることと、この海兵の忌々しげな面持ちが、全てを物語る。
男は込み上げる感情と記憶を呑み込み、努めて冷静にレオパルを見た。言葉を促されたレオパルが、経緯を説明する。
「つい先程、ブリッジ跡付近を警邏していた能力者がクラーケンと遭遇。一時的に海岸線付近まで接近されたものの、我々と能力者の手で撃退には成功した。
現在、ドローンやソナー等で周辺海域の索敵を行っているが、敵影見えず。退いたものと思われる……が、当面はより厳重に海上警戒を行う予定だ。
後ほどK.Y.R.I.E.と作戦会議を行い、具体的に対応を決定していく」
「被害は」
「――ゼロだ。奇跡と言っていい」
誇らしげな微笑みと共に語られたレオパルの言葉に、大志は瞠目した。そして、それまで険しさのみだった表情が安堵で和らぐ。
「そうか。……そうか」
その長い吐息から、九相寺・大志という男が、戦果よりも生還を尊ぶ軍人であることが感じられるだろう。
……と、その時であった。丁寧なノック音が響く。
「お連れしました」
晄(r2n000120)――今回の騒動でレオパルに直接協力し、そのまま能力者が心配で彼らのケアに努めているオルフェウス――の声。「入りたまえ」とレオパルが応えれば、晄に伴われて白縫 かがち(r2p000825)が現れる――妙にしおしおとした様子で。彼女はレオパルと、そして如何にも偉い立場そうな人物にヒュッと息を呑むと、しどろもどろ、口を開いた。
「あの、その。最年長はわーじゃ。あの子らは何も悪うない、ぶりっじに落書きをしたことならわーが全ての責任を……」
「ブリッジに落書き?」
眉をもたげるレオパル、くッと吹き出した大志。晄が「クラーケンと遭遇した時の状況の話を……」とかがちに耳打ちする。
「へ? あっ、なんだそっちのことか、うむ。そっちのことじゃな、とっ当然わかっておったぞ、わかっておったとも」
取り繕って背筋を伸ばすかがちは、空いている椅子へ促されるまま座した。長い白蛇の尾が、足元でとぐろを巻く。ひと間。頬に手を添え、蛇は嘆息した。
「……とはいえ、何をどう話したものかのう。……わー達はぶりっじに居たのじゃが、突然……物凄く大きな蛸足が海から出てきたのじゃ。それはもう……途方もなく大きくてな。問答無用で襲ってきたから……必死に……もう無我夢中で……攻撃できる者は攻撃をしながら、全速力で逃げて……」
そうしてキャンプ・パールコーストの支援を受けつつ、どうにか全員無事の生還を果たしたのだ。何か、どこか、紙一重でも運命が違っていたら、ここにかがちや能力者は居なかったかもしれない。かがちはレオパルへ凛と目を向けた。
「改めて……助けてくれて心から感謝する。誰も喪われなかったことは、まことに幸いじゃ」
「なんの。諦めなかった君達の奮闘あってこそだ。……晄、君も協力感謝する」
レオパルは晄へ目をやる。クラーケン出現に伴い、海岸線へキャンプ・パールコーストが展開する中、「僕も何か手伝えますか!」と飛び込んできたのが晄だ。あの時、晄は己の異能を手短に伝えた後、レオパルにこう言った。
「友達を、――命の恩人(r2p005759)を、助けたいんです」
その言葉、その目に。――レオパルは、クラーケンによって目の前で数多の友を喪ったからこそ。あいつのせいでまた喪いたくない……そう、強く願ったのだ。その想いが晄との同調を果たし、晄の異能発現に至ったのだ。
「皆さんがご無事で何よりです! 本当に、お疲れ様でした」
脅威が去ったこの部屋で、晄は人間のように微笑んだ。
大志はそんな一同を頼もしく見回して。ふ、と小さく笑ってから、窓の向こうの海を見た。
「『あの計画』も進んでいる。そうなれば近い内に――奴とは再び、相見えることになるだろうね」
「あの計画?」
首を傾げるかがちに、大志は悪戯っぽく笑い、人差し指を口元に添えて。
「じきに分かるさ。だが今はまだ、もう少しだけ――内緒だとも」