
第五の鳴動
「実に――実に不本意極まる手を取らざるを得ないようです」
智天使。天の理の第二位階に属するゲラントは、己が主の言の葉をただ傾聴していた。
否。ただひたすらに傾聴せざるを得ない事態であった、と言うべきだろう。彼の主。熾天使が一角アーカディアV、アレクシス・アハスヴェールは――珍しくも、その端正なる貌に苛立ちの色を醸し出していたのだから。
「これは事前に予見していた結果ではありますがね。しかしそれでもなお……えぇ。
いよいよと目の前にすれば、なんの益にもならぬ愚劣なる言の一つも零したくなるものです。なんたる無価値。なんたる愚挙愚昧と知りながら、それでもね。あぁ久方ぶりですよ、我が心の水面に少なからぬさざ波が立つというのは――
厭わしい。煩わしい。
斯様な、只人が抱きそうな心の音色を感じ得るとは滑稽だ。
私にも存外、俗らしい者共を解する才があるのだろうな。少なくとも無縁ではないらしい」
「……御身の心中、お察し申し上げます」
その言の葉一つ一つに、決して分かりやすい怒気のような代物は混ざっていない。
どちらかと言えば諦観のような自嘲のような声色に聞こえよう。
されどゲラントは察している、それは言うなれば表面上の話。己が真に悟るべき主の心中には、決して触れてはならぬモノが蜷局を巻いている。弁舌の狭間に覆い隠されし『黒』があると称そうか……このお方は実に、実に気難しい所があるのだ。
時には自らに対し軽薄なる口を叩く者がいたとしても許す寛大な所もあれば……決定的に踏み越えてはならぬ一線が明確に存在してもいる。
そして此度の主は、その間際に――どれ程かさておき近付いていた。アレクシスが回している言の口調に崩れが僅かながら見えるのがその証左。ならば忠実なる従者として己はただ首を垂れ言を受け入れるのみ。
自らの天の怒りにあえて触れる事など、せぬものだ――
が、その時。
「アレクシス様――! た・っだいま馳せ参じました――!!」
何かがその場へといきなり飛び込んできた。
アレクシスとゲラントの間に漂っていた不穏な気配を吹き飛ばすような声色の持ち主、は。場に跳び込んだ勢いがつけすぎて「ぐえー!」と転ぶ様すら見せている。さればアレクシスはよく聞きかじった声であればこそ視線をそちらへと滑らせて……
「――ターリル。なるほど、ようやく来たのですか。
それにヴァルトルーデ、スィも此処へ」
「アレクシス猊下、ご機嫌麗しく」
「ゲラント様の指示に伴い参りました」
見えた姿。されば一人ずつ名を呼ぼうか。
ターリルと告げられた、陽気なる雰囲気を宿す少女。
ヴァルトルーデと告げられた、アレクシスと似た聖衣を宿す女性。
そしてスィ(r2p005848)と告げられた、ゲラントに似た軍服を着用せし少年――
それはいずれもが第五を天に戴く天使にして精鋭達だ。ただしそれは主天使以下でという範疇での話だが。
「実に良いタイミングです。残していた使命は終わらせてきましたね?」
「無論です。猊下が天上へ顕現された後、割り当てられていた世界はお望み通り早急に焦土と成しました――残り滓はあれど、いずれも碌な力も持たぬ木偶のみ。掃討に残っているメンバーも遠からず御身の下に参じるかと」
「然り。天使の責務は、概ね果たしました」
「では暫くの間、かの地が他の熾天使に詮索を受ける事はないでしょう。
天の頂に在る父からの使命を放り出している……などとは言わせません。元より、良くも悪くも此方になど左程頓着していないでしょうが――えぇ。ともあれ諸君、ご苦労な事でした」
アレクシスの問いにヴァルトルーデとスィは事も無げに告げるものだ。
世界を一つ滅ぼして来た、と。
数多の命を滅して来た……それに対する罪悪感の類は一切無いように見える。スィは冷静な顔色であり窺い辛いが、ヴァルトルーデに関しては口端には笑みの色が灯っている程なのだから――あぁ忘れてはならない。天使にも様々な者達がいるが、彼らは常としてはこういう者達であるという事を。
彼らによって幾つの世界が滅ぼされたのか。
彼らによって幾つの生命が露と消えたのか。
――決して忘れるなかれ。天の使いは人類の敵なのだと。
「で、来たは来たけど何すればいいんですか? ぜんぜん知らずに来たんですけど」
「――称するならば『地ならし』と言った所だ。
我らが主の道筋に煩わしき小石などあってはならない。故に先んじて弾く……分かるなターリル?」
同時。鼻先を抑えながらターリルが言を紡げば、答えしはゲラント。
彼の告げた地ならし……それは物の例えであるが要はバルトロと同じことをせよの意である。
主の為、身命を賭せ。身体も魂も尽くし切れと――しかし。
「地ならし……なるほど、分かりました! ではどこです? リルちゃん、どこのお庭を平らにすればいいんですか!? うおーやりますよ! 頑張ります! 外にあった薔薇園ですか!!? どこのお庭だってピッカピカにしてやりますよ!! すきはちから! アレクシス様の為にどこでもならします!」
「……違う。つまり先行したバルトロと同じく、邪魔な連中を排除しろという事だ」
「!!? え、そう言う意味だったんですか!? 分ッかりました!
つまり敵をぶっしゃー! して、キエエエエ!! すればいいんですね!
やったりますよ~!! アレクシス様の為に!!」
「申し訳ございません我が主。
この雑音を誕生させる事しか能のない価値なき首を今すぐ切り落とします」
どうにこうにもターリルは素で分かっていないようである。
あまりに陽気なる口調は荘厳なりし天上に相応しくないようにも感じれよう……されば腰の剣に手を添えるゲラントを、「結構」とばかりにアレクシスは片手で制す。
ターリル・マルタル。アレクシス麾下の天使の中でも、まぁご覧の有り様な人物である。知的、冷静。そんな言葉から遠く離れている彼女だが……しかしそんな気性がどういう訳かアレクシスには気に入られているようで、大抵の言動を捨て置かれている。
いずれにせよ、幸いにして彼女の登場で主の剣呑な雰囲気が多少和らいだ。
主が良いと言うならばゲラントもターリルの無礼を赦す他は無い。
「……とにかく。ターリルはバルトロに引き続き『地ならし』を。
スィはひとまず待機を。状況に応じ投入も見据えよう。
……嗚呼、私自ら顕現出来れば話はすぐに済むというものを」
「それが叶うのなら私にも何ら苦労はありませんよ」
口惜しく言ったゲラントをアレクシスが軽く笑った。
「地上に顕現して良いのは精々が主天使クラスまでだ。
……いや? 主天使であっても例外的だが。
私は身勝手な男に感謝でもするべきでしょうか?
あの悪しき前例があるからこそ、主天使如きは気にはされない。
だが、マリアテレサがアーカディア・イレヴンの動きを縛った以上、それを超えれば必ず露呈する」
「……」
「彼女の勘は中々良い。とはいえ、アレは余りにも傲慢で大雑把です。
やる気のない――目の粗い走査と比べるなら私の権能が勝る事でしょう」
「我が主は滅びを迎える世界に在られる」
「ええ。それが大前提。公的にはそうでなければならない。
私は消化試合の世界を塗り潰すに忙しく、当然ながら骨の玉座の傍らでは智天使が補佐をしている。
それが一つの間違いも無い事実です。アレクシス・アハスヴェールは天に留まり勤めを果たし続けている」
「聞いたな?」
ゲラントはスィに水を向けて確認をする。
「――肯定。如何なる命も必ず遂行してご覧に入れます、ゲラント様。
我が身、我が命、なにを賭してでも……七難八苦が待ち受けようとも、必ず」
「ええ。あらゆる事態に対処できるように万全は期しておくべきものです。
後詰、或いはスィは件の欧州方面への対策の一手に投じてもよい。君が連中に抗せるかどうかはさておいても、私――いやゲラントの抱く期待に努々応えてあげることです。その魂の儘にね」
「全てつつがなくこなせ、スィ」
「……ハッ、仰せの通りに」
恭しく礼を取ったスィの忠誠心は実の所、アレクシスではなくゲラントに注がれている。それは一歩間違えれば極めて危うい姿勢と言えるのだが、しかしどうあれ彼の在り方は変わらないし変える心算もない。
彼がただ言の葉を望むのはゲラントからだけなのだ。
「……そしてヴァルトルーデは地上にて『オベリスク』の設置指揮を――」
「お姉ちゃん」
「……ヴァルトルーデは『オベリスク』の」
「お姉ちゃん」
「…………我らが主の御前だ、控えなさい。姉さん」
「お 姉 ち ゃ ん」
「ひぃ、怒っちゃダメですよ、ヴァルトルーデおねえちゃん~!」
「ふふ、ターリルは聞き分けの良い子ね。
ゲラントだって昔は可愛かったのに、どうしてこうなっちゃったのかしら。
ねぇスィ。スィは私の事、お・ね・え・ち・ゃ・んって呼んでくれるわよね?」
「……ゲラント様」
「姉さん、スィを虐めるのは止めて差し上げなさい」
ゲラントは眉間を抑え、頭痛を堪える顔をした。
そう、実の所ヴァルトルーデはゲラントの実の姉である。ただ、その位階は智天使たるゲラントと比べれば遥か下。宿りし実力を比べるなどとても出来ない程の差があるのだが――心の在り方ばかりは階位で片付く問題でもあるまい。
やれやれ。どうして誰も彼もこうも好きに生きるのか。
ターリル、ヴァルトルーデ、スィ……いやスィはともかくだが、とにかく。
思い返せば実に困った連中ばかりではないか!
「多少の茶番は有意義な働きを前提に許しましょう」
アレクシスは冗句めいて拍手をした。
主はむしろ斯様な寸劇を面白がる余裕を持っている。
「不要な諍いなど私の見出した影には要りません。
同胞同士、仲が睦まじいならばよい事です。むしろ望ましいと言える。君達が私の望む結果を望む通りに出すのならば何も言う事はありません。その上で――私は新たに望みましょう。しかし心する事です。
此度、君達に下す命の重みはかつてない程のものであるとね」
言葉は静か。さりとて雷撃。
瞬間。いずれの者も、アレクシスに対し跪く。
彼の言葉は絶対。間違いのない絶対だ。
第五を天に戴く者達にとって、世界の理にも等しいのだから。
この方が告げれば、そうあれかしと動き。
この方が告げれば、世界の方こそがそうなるべきと動くのだ。
「ゲラント」
「何人も御身の邪魔はさせませぬ。特に――あの天の子飼いなどには一切に」
「ターリル、ヴァルトルーデ、スィ」
「全ては万全に」
「宜しい」
だから――天そのものが告げよう、絶対の指針を。
「では行きなさい、我が走狗よ。愛すべき我が影達よ。然る後――」
一息。
「準備が整えば、この舞台の幕は上がる」