
秘中たる理
「ミハイル――? まさか、あのミハイルですか」
アレクシス・アハスヴェールの側近たる智天使ゲラントの眉が強く顰められた。
『崩天』のミハイル。良くも悪くも知れ渡っている名だ。まさかあの男が接触してきたとは……地上に降りてきていないゲラントは少し遅れてその情報を知る事になり、思わず額に手を当てていた。
「どこから御身の情報を察知したのか……いずれにせよ厄介かつ面倒な男ですね。内々に事を済ませるのが理想でしたが、主天使級が来訪する状況とはあまりに想定外……マリアテレサに通じている訳ではない、というのは幸いですが不確定要素には変わりない事でしょう。
如何なさいますアレクシス様。更なる援軍を投じますか?」
故に紡がれた言の葉。ゲラントの示唆はつまり――
「ミハイルは信用しがたい。いや信用以前に、何を考えているのか心が読めない。故、あの男の思惑が如何なものであれど万全を期す為に、こちらも主天使級をお傍に――」
「それはなりません。言ったでしょう?
そもそも主天使ですら例外的。地上で動ける者として辛うじての一線なのです。ましてや主天使級の力量が二つも一か所に集っている……それ自体も懸念すべき範疇だ。
端的に言って――各所のオベリスクによる妨害工作を張り巡らせているとはいえ、これ以上の数が増えようものなら目立ちすぎる恐れがある。あの女の感知に、万が一にも引っ掛かってしまう可能性はこれ以上許容しがたい」
護衛として現有戦力より更に上を投じんとする提案であった。
主天使を抑える為には主天使が適任。
投入できるギリギリのラインの戦力を――と提言するも、ほぼ即座にアレクシスによって却下される。
本来熾天使であるアレクシスが、極限にまで力の出力を落としている理由を忘れてはならない。踏めないリスクがあるのだ。確かにゲラントの言う様に主天使級がいれば抑えとしては適している――だが、それはあまりに危険すぎる。
この一連の事態、マリアテレサに露見しない事が最優先されるべき絶対の条件。
奴は座天使以上の動きを見ている筈だ、が。複数の主天使の動きが安全圏とも限らぬ。万一を思えばこそ念のため避けたい――更には。
「天眼は侮れませんよ。
それに地上の愚昧共によるオベリスクの破壊が著しい。
ここ暫くに至って特に……数千のオベリスクの信号が途絶えています。
……ヴァルトルーデ達は何をしているのか。
多少は破壊されても構わないとは言いましたが、これは些か度が過ぎている。或いは人間達の奮闘をこそ褒めてあげるべきなのでしょうかね――? 一体どこの愚昧がそこまで尽力している事やら!」
「まさか、それほどまでの被害が人類によって……?
件の欧州ならまだしも此方側にそれほどの戦力があるとは……」
続け様アレクシスによって語られたのは、K.Y.R.I.E.による箱根山攻略の最中に行われている、周辺のオベリスク掃討作戦の件である。
なんとまぁ既に破壊されたオベリスクは数千以上の被害が出ている様で、しかもまだ作戦継続中だ! 此れほどの被害が出るとは流石にアレクシスは思っていなかったらしい。最終的にはどれ程の損害となる事か……
頬杖をつき。天を見上げながらアレクシス、は。
「実に。実に歯がゆい事です。
息苦しい。窮屈です。このような閉塞感はかつて味わった事がありません。
なぜ私があの男や人間共に斯様に心を裂かねばならぬのか」
言を紡ぐ。
されど、その言においてはアレクシスの声色が微かに変わっていた――滲み出るは『不快』の色か。一つだけなら構わない。だが二個も三個も訪れ得る不測を好む者など、何処にいようか。
あぁ己が万全ならば自ら全てを叩き伏せているというのに!
彼の者の貌こそ、未だ平静たらんとする微笑みが張り付いてるものの――アレクシスの心中の水面には、少なからぬ漣が立っていた。
「誰も彼も、いずれは思い知らせてやるとしましょう。
どれだけ力を尽くそうが私の計画を叩き壊せるなどと思わない事です。
――状況の盤面を塗りつぶす札は、構築されつつあるのですから」
「アレクシス様、まさか……あの力を地上で使われるおつもりで?
しかし……あの力の行使は、それこそ目立ち過ぎるのでは」
「これ以上の不測が生じた際の保険ですよ。使わないなら越したことはありません――しかし頭に乗る連中に裁きを与えるのは私の責務と言える。その時になったら使うのに躊躇いはありませんとも。
幸いと言うべきか降りた場所も適していた事ですしね。
……ミハイルにしろ人間共にしろ不確定な要素が生じうる中、私がただ座したまま状況を静観していた――そう思いますか? 全ては裁きの一手を構築する為ですよ。そしてソレはもうすぐ完成する。そうなれば私の勝ちはほぼ決まりだ。
地上の愚昧共に抗えるものですか。主天使級の出力では時間が大分必要ですが、ね」
だが。アレクシスに焦りという程の感情はなく、また狼狽するような事も決してない。
予想外な事は多々あった。
それでも未だ全て、掌の上に収まっている範疇だと確信しているのだから。
「……御身の裁きが万民に知らしめられる訳ですな」
「えぇ。ですがやはりオベリスクの損失がやや想定外です。
今後も見据えれば、念の為に再整備が必要でしょう。
天使級に運ばせなさい。可能な限りの数を」
「承知しました。至急手配し、地上へと送り届けます」
ゲラントは地上にいるアレクシスからの指令を受け取りて即座に行動を開始する。
他に何が在ろうとも優先すべき最重要事項だ。一寸の遅れも許されない。
眉間に皺を寄せ、ゲラントは己が責務を果たさんと歩み出し――
「――ゲラント様。あの方からの新たな勅命ですか?
お手伝いできることがあれば、なんなりと」
「スィか。ふむ、ひとまず私と共に来い」
「はい、喜んで」
と、その時。ゲラントの傍に至る一人の天使の姿があった。
彼の名はスィ。アレクシスではなくゲラントに忠実に仕える天使である。
常にゲラントの補佐をせんと立ち回るスィは甲斐甲斐しいものだ。
……だからこそあぁ。ゲラントはふと、立ち止まり。
「スィ」
「はい」
「お前は……アレクシス様の権能を知っているか?」
一つだけ、尋ねた。質問と言うよりも確認の意で。
権能。そう、己が主の宿す極大の神秘を知っているかと――しかし。
「権能、ですか? 一度だけあります。裁きの事ですね?
あの視界を覆い尽くす程の尋常非ざる神秘の光景を見たことが――」
「違う」
「はっ?」
「それはアレクシス様の権能ではない」
瞬間。スィからの答えに、ゲラントは心の中で安堵の吐息を零さずにいられなかった。
あぁ良かった。正解が来たらどうしようかと思っていたのだ。
あの方の権能は――その真髄は――可能な限り秘密である必要があるのだから。
「――まさか。そんな筈は。あれほどの力が、違うと?」
「まぁいい。むしろ知らないのならば、その方がいい」
嘆息交じりに漏らしたゲラントは忠実なる能吏を消さずに済んだ事を幸いに思う。
「そもそも我々全軍を見渡しても、あの方の権能を正しく把握しているのは一握りの筈だ。勘付いている者の存在は否定出来まいが、それは事実として知るべきではない話なのだ」
ゲラントはそこまで言ってからふと思考の歩みを止めた。
(待て。ミハイルはまさか知っているのではないだろうな……?)
困惑するスィの表情。さりとて、その困惑を解消せぬままにゲラントは思考を巡らせた。
ミハイルと言えば最も旧い天使であると噂を聞いている。少なくとも古株であるに違いはあるまい……様々な歴史を同時に見てきたのならば、主の権能の秘密にも気付いているか? 知っているか……?
……まぁいい。この場で考えても答えは出ぬ領域だ。
いずれにせよアレクシス・アハスヴェールの権能とは何か?
それをもしも知る事が出来たならば、全てが分かるだろう。
アレクシスが何故、危険を冒してでも地上に現れたのか?
アレクシスは地上でそもそも何をしようとしているのか?
アレクシスの秘する権能とは一体――どのようなモノなのか?
――全ての理は繋がっているのだ。