至高の不運
関東、概ね滅びた旧横浜市街を含む神奈川エリア一帯の天使勢力の最大拠点が横須賀基地である事は知れている。
黄昏の現代で全世界的に活動を低下した天使達の中で例外と言っていい動きを見せるこの基地の司令室で力天使ラファエラ・スパーダは深い溜息を禁じ得なかった。
「……ふぅ」
幾度目か繰り返したその重い吐息は憂鬱な色合いを帯びていた。
人を模したように存在して、全く人類とは異なる天使の――しかし妙に人間味のある姿はかなり痛烈な皮肉である。
彫像のように整ったラファエラの美貌に差す影は成る程、これより待つ時間の意味を知らしめている。
――ヴンッ――
ノイズ掛かったような音が室内を揺らし、ラファエラの目の前に美しい女が現れた。
揺らいだその姿は幾分かディティールを欠いており、それが人類が使う所のホログラム映像に近いものである事を示していた。
「ご機嫌麗しく。至高の天使よ」
彼女を出迎えたラファエラはデスクより立ち上がり、最敬礼の様を取っていた。
恭しいその言葉はいよいよ硬質じみており、如何にも武人然とした冷静な彼女なのに、その声色は滲む強い緊張の色を隠してはいない。
「あら、意外。麗しいと思うんですね」
「……………」
「麗しい訳がないではありませんか。それとも前回とは違い、貴女は僕の気分を良くしてくれる材料でも持っているのかしら。
報告をする事も無く? サプライズというものでしょうか。
だとしたら、それはさぞ素晴らしい事でしょう。ええ、僕は途端にご機嫌麗しくなりますから。遠慮なさらずに、さあ。そう言って下さいな」
「……大変、失礼をいたしました」
ラファエラは腰を四十五度に曲げ、深く謝意を示すだけだった。
「それで? 実際は?」
「……賜った指令につきまして、現在有為な進捗状況はございません」
「探し物一つも出来ないのですね。
あれだけ特徴的な一人を見つければ良いだけなのに?」
「……は。返す言葉もございません。しかし、一帯に捜索の目を広げておりますが、現在までに重要な情報は得られていないのです」
「使えない」
女の冷淡な一言にラファエラは身が竦む想いであった。
言いたい事はある。跳ね返りの天使ならば何らかの弁明をするやも知れない。
だが、力天使なる冠を戴く彼女はその力が故にそんな心算は微塵も持たない。
いや、そんな事を考える以前の問題だ。
(怖い――)
天使ならば常識のように理解している。
アーカディアイレヴンとそれ以外は全く別物、同じ天使であったとしても別個種族。
それは主に仕える十一体の熾天使、最高位の天使達の総称である。
かつてこの地球に顕現したのはその内の一であり、その一体のみによって世界は黄昏を迎えたのだ。
遥か遠く――至高の場所、天上庭園でお茶を嗜む彼女を怒らせたならばその瞬間、きっと自分はバラバラにされてしまうのだろうとすら、思ってしまう。
アーカディアイレヴンは――いや、その中でもこの第一位はそれ位に強烈だ。
マリアテレサ・グレイヴメアリー、その名もその声も出来れば一生涯聞きたくはなかったと言い切れる程に。
「ラファエラ・スパーダ。質問があります」
「何なりと」
「貴女があの子を見つけられないのはどうしてだと思います?」
「それは……」
「咎めはしませんから、正直に答えなさいな」
「……………我が身の不徳の致す所と存じます」
「真面目ね。でも、それは本音かしら?」
「間違いなく。少なくとも私は貴方様よりの情報を疑った事はありません」
「では、全ては貴女の無能の故だと?」
「はい。申し開きもございません」
「……真面目ね」
肩を竦めたマリアテレサは「でも、だからこそ使えない」と口角を持ち上げた。
まるで猫が鼠をいたぶるような風情で、とびきりの美少女が嗜虐的に目の前の玩具を弄んでいる。
「単純な能力不足に使命を与えたならば、直上の僕が愚かになるではありませんか。
貴女が使命を果たせないのは能力不足以外に問題があります。
いいですか、ラファエラ。仮にも力天使を名乗る貴女がこの程度のお使いを果たせないなんて有り得ないのですよ。
ええ、力天使が如き木っ端でも、その程度の仕事は果たせましょう」
「……と、申されますと?」
「あの子が時間転移でこの時間軸に飛んだのは間違いのない事実です。
多少の誤差があったとしても――そうですね、精々が数週間か数か月の筈。
となれば、使命を与えてからある程度の時間の経った貴女は十分にそれを補足するチャンスはあった筈。
……だというのに、手がかりの欠片も捕まえていない。未だに、全く」
マリアテレサは軽侮する笑みを湛えたまま言葉を続ける。
「貴女があの子を見つけられないのは人為的な作用が働いているからです」
「……何者かの妨害が?」
「はい。そうでなければ本当に貴女が無能という事になりますけど。恐らくそれはないでしょう。
つまる所、あの子は何者かによって何処かに隠されている。
僕は終わりかけの世界の事なんてちっとも知りませんから誰がとかは関知していませんけれど」
「……まさか人類の生き残りが?」
「知らない、と言ったでしょう?」
ラファエラの脳裏を過ぎったのはこの所、少なくない回数小競り合いを含む戦闘を重ねた人類圏の事であった。
予想以上に戦える個体が多いのは印象的だったが、それでもどうというものでもないと認識してきた相手だった。
「……………」
ラファエラは冷静に考えを巡らせた。
人類圏が何かの手段であの方の気配を隠蔽する事が出来るだろうか?
(……常識的に考えるならば不可能だ)
確かにマシロ市なる拠点に集結していると思しき人類の生き残りはそれなりの力を持っているだろう。
横須賀基地の戦力を前にしたならば吹けば飛ぶような砂の楼閣であったとしても、それは聞いていたよりもずっと出色の存在だ。
(違う。そういう問題ではない。我々天使の中でも可能な者は少ないだろう。それ位、かの方は特別過ぎる)
神秘の濃度という一点において、黄昏の人類と中位天使たるラファエラではモノが違う筈である。
つまり、そのラファエラ自身でもとても不可能な芸当を人類圏が成し遂げる可能性等、ゼロに等しいだろう。
「……お言葉を感謝いたします。この近くに何らか力のある存在が無いか、それも含めて探索を強化いたします」
「まあ、そうして下さいな」
「期待してませんけど」という小声の言葉は聞こえない振りをしてラファエラは最後にマリアテレサに問い掛けた。
「一点ばかり確認が」
「はい?」
「最近、人類圏との交戦が増えております。御身より対応の命令を賜りたく――」
「――はあ?」
心底冷淡なマリアテレサの声にラファエラの全身、肌が粟立った。
「まさか貴女、食べ残しの処理の仕方を僕に尋ねる心算なんですか?」
「……っ……」
「まさか、そこまでの無能ではありませんよねぇ」
「は、い」
「では、引き続き仕事に励むように。
そんな世界どうでもいいけれど、お父様の手前もある。あの子だけは回収しなければ余り乱暴な事も出来ませんからね」
「はッ!」
「あんまり使えないと、貴女の存在価値まで疑ってしまいそうですし――」
独白じみて一方的に言ったホログラムが掻き消える。
全身の疲労感と早鐘を打つ鼓動にラファエラは思わず目眩を覚えていた。
酷く消耗して椅子に倒れ込み、天井を見上げる。
(……力ある何者かが、だと?)
マリアテレサとの面会は憂鬱の極みだが、彼女の能力は疑う余地もない。
傍迷惑な安楽椅子探偵の言う事は恐らくは正しいのだろうとそう思う。
ならば、ラファエラの仕事はその何者かを特定し、かの方を補足するのが一番という事になるのだが。
人類圏は徐々にこの横須賀基地へと迫っている。
それをラファエラは脅威とは思わないが、それが邪魔になるのは明白だ。
そしてその彼等による任務への悪影響を、或いは遅延をマリアテレサは絶対に認めてはくれないだろう。
(首が寒いな。どうやら今回の話、簡単にはいかないようだ――)
マリアテレサ・グレイヴメアリー、やはり至高の名等聞かないに限ると天使は誰でも知っていた。