PM3:07
「――それが君の魔法ってワケか」
後背からかけられた声に雪代 刹那(r2n000001)は振り向いた。
人類の決戦の最後方。振り返る暇もほぼ無い激戦の所為で刹那と涼介・マクスウェル(r2n000002)は大半の人間に気付かれる事は無かったが、もっと後ろから現れた人間は例外であったらしい。
「尾行ですか」
「気付いて居ただろう?」
大した事でもないように答えた王城 かぐら(r2n000003)に涼介は小さく肩を竦めた。
「あの、今の話は一体――」
困惑を含めた刹那に涼介は答えた。
「……まあ、仕方ないでしょう。貴女は当事者なのだし」
「私は天使達に探されていた、という事なの?」
刹那の直截な問いに涼介は「はい」と頷く。
「外しては頂けませんよね」
「勿論。でも取引をしよう」
水を向けた涼介にかぐらはそう言った。
「ある程度以上、本当の事を言うのなら、涼介君が隠したい事については協力する。
勿論、何でもとは言わない。でも例えば、さっき天使を捻り潰したみたいな事は黙っていてあげるよ。
あんな異常なの、あれこれ聞かれたくはないだろう?」
苦笑いを浮かべた涼介は「まあ、頃合と言えば頃合ですからね」とだけ答えた。
「とある理由から刹那さんは天使達にとってのキー・パーソンになっている。
刹那さんは天使達にとっては決して侵してはいけない存在だ。
彼等の言葉を借りるなら保護しようとでも思っているでしょう。
その理由詳細については申し訳ないですがまだ尚早だが。ラファエラ・スパーダ、横須賀基地の連中の真の目的は刹那さんを確保する事にあったのです。ですから私は彼女を隠していた。
そして当然こうなるだろうと見越して、切り札として餌にした」
「結局、私の事は何も教えてはくれないのね。
……それに、餌にされるっていうのは多分初めての経験だけど、あんまり気持ちよくない話だわ」
しかし人類の為と言われれば刹那も何とも難しい顔をするしかない所だろうか。
「教えたいのは山々ですが、現時点では安易な行動は非常に重篤な問題を呼ぶと言わざるを得ない。
……その辺りは信じて下さい、としか言えませんが。まあ、無理ですよね。日頃の行いが中々悪い」
そう言った涼介にかぐらは告げた。
「刹那さんの話と天使の目的についてはK.Y.R.I.E.の皆にも共有させて貰うよ。
涼介君の秘密主義に理由がある事は信じられても、実際に命を賭ける彼等に対しての義務がある。
……それは君も分かっているだろう?」
灰色の氷獄が砕けた理由は何か。
あの青い空が何を犠牲に輝いたのか――強い口調のかぐらをこの時、涼介は茶化さなかった。
「……私は、この後どうしたら」
「私と共にいて下さい。絶対に傷は付けません。
しかし、ラファエラに言った事は嘘ばかりではないのですよ。
私はどうしようもないと判断したら、マシロ市より貴女を取る。
人類の為を思うにしても、きっとそちらの方がマシでしょうからね」
刹那は唇を噛んだ。長らく自身を軟禁していたような相手の言が信じられるかの問題だ。
しかし、恐らく彼の言ったのは最悪の場合の話だろう。
「……約束は出来ない」
「おや」
「……………その時、自分で判断する」
外と関わる事は出来なかったがマシロ市には刹那の世話をしてくれた職員も多い。
「駄目だって言うなら、ハッキリさせるわ。
その場合は――絶対に貴方にだけは従わない」
それに今、必死に戦うK.Y.R.I.E.の皆を見捨てるような事は出来ない。
……面識もない彼等が得体の知れない自分の事をどう思うのかは知れなかった。
それでも刹那の気持ちは固まっている。
強い意志の籠った刹那の双眸にかぐらは「ありがとう」と応じ、涼介は「ふむ」と声を上げる。
「第一、だ。
どうしようもない状況を前提にするのは辞めて貰おうか。
K.Y.R.I.E.は――人類は勝つよ。その為にここまで来た。
涼介君、念の為に確認しておくけれど――君はここまでだよね?」
援護射撃をするように言ったかぐらに念を押された涼介は目を丸くした。
「本当に勘が良い。驚きますよ、正直ね。
……はい。かぐらさんの仰る通りここまでです。
貴女とK.Y.R.I.E.の皆さん、マシロ市民に敬意を表して本当の事を言いましょう。
これは秘密にしておいて欲しいのですが。私はね、現状において使った力が戻らない性質なのです。
注いだコップから水が零れれば、一口を呑み込めばそれは永続的に消失する。
……とある理由でそういう制約を受けている訳ですが、これは簡単に解除して良いものではない。
だから、この戦いに勝利を点すのはK.Y.R.I.E.であり、人類なのだ。
この魔法の結末を決めるのは皆さんに他ならないのですよ」
珍しい程素直に述べた涼介にかぐらは少し驚いた。
「涼介君、さっきのラファエラとの話だけど」
「はい」
「もし彼女がより強大な天使に報告していたらどうする心算だったんだい?
私には詳しい事は分からないけれど、口振りからして君達は通じ合っていた。
断片的な言葉から察した限りではラファエラは命令を受けている存在なんだろう?
あの狼狽を見る限りじゃ、相手は相当に厄介な――例えば熾天使だったりするんじゃないか?」
「いい憶測です。ラファエラに命じたのはマリアテレサ・グレイヴメアリー。
以前にもお伝えした最悪の熾天使ですよ」
「じゃあ尚更だ。
君は以前にギャンブルはしないと言った。
涼介君はラファエラが彼女を呼んだらどうする心算だったのさ」
かぐらの問いは恐らく過ぎた事への確認に過ぎないが核心を突いていた。
その極大のリスクは想定しなくていいものであるとはとても言えない。
「そんな事はしませんよ。私は彼女を誰より良く知っていますから。
彼女がラファエラに言いそうな、彼女がやらかしていそうな状況には確信がある。
報連相のサイクルを健全に機能させているならそれはテレサではありませんからね。
それに、第一が物理的に不可能だ」
「……どういう意味?」
「言ったでしょう、出来れば三時までもたせろと。
彼女はきっかり三時に楽園で天上のお茶を嗜む。
その時間に力天使程度が分け入る事は絶対に不可能だ。
つまり、今回。ラファエラは報告しようと思っても出来ないし、しようとする可能性は極めて小さかった。
結局、最後にはこの選択を取るしかない。
熾天使の勅命は漫然とした人類殲滅に勝る神意ですからねえ!」
かぐらは涼介の性格と性質の悪さに呆れた。
彼は情報と論理と詐術と詭弁と合理性、幾分かの特異能力。つまり己が基礎能力だけで対面してすらいない敵を掌中に収め、マリオネットのように操ってみせたのだ。
「ああ、そうそう。権天使を始末したのは本当ですが刹那さんを隠したのも私ではありません。
あれは教授の仕事で――ラプラス君の方でプロト・システムの拡張に目途が立ちましたからね。
戦いが無事に終われば晴れて刹那さんはマシロ市内を出歩けるという訳です」
「ね? 自由になれると言ったでしょう?」と涼介は嘯いた。
息をするように嘘を吐く。確かにそれは鮮やかだった。
確率を任意選択しているような淀みなき論理構築、悪魔はその合理性をこそ魔法と称していたのだ。
使えば失う本当の魔法をこの程度の些事に使う心算は無いと言わんばかりに。
「まるで蜘蛛の巣だ」
呟いたかぐらは最後に少しだけ感じた違和感を問う事にした。
それはきっと最もこの涼介から遠い何かであった。
「……それにしても、さっきのは何時にも増して、随分と切れ味が鋭かったね。
言い方を変えると少し感情的になっているようにも見えた。
二十年以上も君の最悪な所を見続けてきた女の見立てだけど、それは正解?」
溜息を吐いた涼介は「怒っていましたからね」とあっさり頷いた。
「白雪涼音。今年の四月にマシロ市に合流したフレッシュの少女だ。
身長は164センチ、年齢は肉体年齢にして18歳。
気まぐれで移り気な所もあるが、クラスメイトや友人とは仲良くしていたようです。
多くの任務を積極的にこなし、特に市政からの要請では大きな活躍が見られた。
……かぐらさん、私の口癖を覚えていますか?」
人より多くを見通せる目は状況をより素早く正確に知ってしまう。
それはかぐらにせよ、涼介にせよ、教授にせよ同じ事だ。
寂寥感と喪失感がある。
何より打ちひしがれるような無力感は否めない。
涼音だけではない。一体自分は何人をこの死地に送ってしまったのだろうと血が滲む程に拳を握る。
「……………ねぇ、涼介君。さっきの見捨てるって話は本気だったのかい」
そんなかぐらの問いに涼介は分かり易い返答をしなかった。ただ。
「失敗なんて無意味な仮定ですよ。私は優秀ですからね」
物言いは傲慢で、しかして続いた言葉は――口癖は何時もの彼のものよりは幾分かは真摯に響く。
「少なくとも彼女は最初から最後まで間違いなく。私の愛すべきマシロ市民だった。
……私はね、K.Y.R.I.E.がその返礼を達成する事を強く信じているに過ぎません。
……さて、長いお喋りになりましたがいい加減におしまいだ。
ここは人類の決戦の場。そろそろラファエラが暴れ出す頃ですよ――」
「……っ……!」
まだ何も出来なくて、唇を噛むしか出来なくて。
涼介の言葉に応じた訳ではないだろうが、彼方で起きた爆発が刹那の鼓膜を揺らす。
轟音は鏑矢のように戦場を奔り、華々しく無遠慮に真の決戦の訪れを告げていた。