エデンの園
穏やかな陽光が照らし、温かな柔風が髪を揺らす。
美しい庭園の花の香りを運ぶ素敵な時間にささやかな彩を添えるのは小鳥の鳴き声だ。
庭園の主達は必ずしもそんな光景を慈しむ類の者達ばかりではなかったが、ともあれ今日もエデンは麗しい。
世界の破壊者達の居場所としては圧倒的に不似合いなそんな場所で。
「……あら」
至高を冠する熾天使マリアテレサ・グレイヴメアリーが不思議そうな顔をしたのは、恐らく彼女にとってだけは正真正銘に青天の霹靂だったに違いない。
「どうしましたか、皆さん。珍しく雁首を揃えて」
白磁のカップに薄い唇をつけたマリアテレサの言葉には棘と皮肉が混ざっていた。
とは言え、彼女のお茶会を邪魔して許される存在はそう多くは無い。給仕の使い走り程度ならば何か言葉を発するよりも先に、こうして姿を見せた時点で消し飛ばされている事は間違いが無かろう。
「どうしましたか、ですか」
薄ら笑いを浮かべた白い聖衣の天使の背には三対六枚の羽がある。
「マリアテレサ。御身のその問いを受けたなら、我々がここに集まった理由は肯定されようというものだ」
「――まぁ、ソッチに賭けても良かったけどね。今回はアレクシスに華を持たせておいたって事で」
マリアテレサの反応で賭けにでも興じていたのか――
青地の派手なシャツに軽薄かつ酷薄な笑みを浮かべた天使が銀色の林檎を聖衣の男――アレクシスに放った。
「どうだか。他でもないディオンに女性の気持ちが理解出来るとは思えませんからね」
些細なやり取りで僅かに冗句めいたアレクシスにディオンと呼ばれた男は「まあね」と肩を竦めている。
「何なら二人きりで――じっくり教えて欲しいんだけどな、テレサには。
ああ、そうそう。燃える位に腐り落ちる位にたっぷりとね。任せてくれるなら今夜にでも」
ウィンクしたディオンの流し目には湿度と、また別の何かが滲んでいた。
そんな彼の背にもまた、三対六枚の羽。
「そんな戯言を述べに来た訳ではないだろう。
我々の中にそう暇な存在は無い筈だ。
我等の来訪の故にも頓着せず、エデンで茶会を嗜む一人を除いては、だがな」
「……ええ。マーカスの言う通りです。この会合は例外です。
私達はそれぞれの仕事に優先してこのエデンに赴いたのです。マリアテレサ」
騎士然とした赤毛の天使――マーカスに内気な少女にすら見える天使が同意した。
「そう? テレサのお茶会いつも素敵な感じじゃない!
わたし、こういうのってわくわくするわ! ねえ? エイ=ル!」
「そうだね、リ=ル。この楽園には不純物が無いから、ぼくも決して嫌いじゃないさ」
リ=ルと呼ばれた少女にその双子の兄らしきエイ=ルが同意した。
「……子供ですわねえ。まぁ、目の前のケーキで喜ぶ位の方が可愛げは感じない事もありませんけれど」
「うんうん。でもリズちゃんの言う通りよ! 子供はやっぱりそうでないとね!」
銀髪に赤目、蒼薔薇の少女が面倒そうにそう言えばにこ豊満な肢体を修道服に包んだシスターが実ににこやかに頷いている。
先に挙げたアレクシスとディオンだけではない。
つまる所、この場に集まった八体の人型と、
「……………くぁ……………」
たった今酷く大きな欠伸をした一体の猫型――それら天使全てには同じ特徴があった。その共通点という単純な事実は、これら全てが人類の最大最強の敵――熾天使達である事を示している!
「……………それで? 僕、今お茶の途中なのですけれど」
マリアテレサは居並ぶアーカディア・イレヴンを見渡して嘆息した。
「皆さんは皆さんの割り当てがある筈。
それを放り出してエデンに集まるような理由、ありましたっけ――」
「――ラファエラ・スパーダが失敗したというではありませんか」
唇の端を皮肉に持ち上げ、口角に三日月を作ったアレクシスが笑う。
「マリアテレサ。あの方の問題解決は御身の仕事だった筈では?」
「……………」
マリアテレサはカップを白い机に置いて何かを考え込む顔をした。
「……マリアテレサ?」
「……ええと、ああ。そう、そう! ラファエラ!
ちょっと、失念しておりました。そう言えばそんな天使を遣いに出した筈でしたね」
麾下天使を覚えても居なかったマリアテレサに熾天使達さえもが絶句した。
「話は理解しましたが。確認してみましょう」と言ったマリアテレサの目が輝く。三千世界の全てを走査する文字通り神の如き眼力は地球の世界の悉くを裏の裏まで看破し得る。
「……………へぇ」
僅かな時間の後にマリアテレサの口元には酷く意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「面白い。これは、僕にも予想外でした」
マリアテレサらしからぬ反応は、何かを暗示している。
だが、他の者がそれが何かを察するよりも早く。彼女は元の優等生然たる顔に戻って「成る程」と頷いた。
「力天使ラファエラ・スパーダは敗退!
あの子の行方は杳として知れず、皆さんはその話をする為にはるばるエデンを訪れた、と。
……さて、困りましたね。どうしましょうか」
水を向けたマリアテレサにマーカスが言った。
「遊びでは無いのだ、マリアテレサ。かくなる上は我々か、直下を顕現させて事態を解決すれば良い」
「本気で仰っている?」
「無論。逆に問うがそうしない理由が何処かにあるか」
心外だとばかりにマリアテレサは大袈裟な溜息を吐き出す。
「莫迦な事を! マーカスは未だに理解していないのですか。
我々はアーカディア・イレヴンなのですよ?
全ての造物主、お父様に選ばれた愛し子。大願を叶えるに足る、参加者。
……まさかそんな僕達が? 軽々と顕現して? あの子の食べ残しに本気を出す?
優雅さを欠く騎士なんて、熾天使に相応しくありません。
冗談ならば撤回しなさいな、マーカス・シャトーペール。
そうしなければ、大切なお姫様もきっと泣いてしまうでしょう?」
気色ばむ――を超えて抜刀しかけたマーカスの腕を傍らの少女が掴んだ。
「……っ……」
「だめ。我慢して」
「だが……今この女は……」
「分かってる。でも堪えて」
「……………っ、く」
歯ぎしりをしたマーカスに代わり愉悦を帯びたディオンが問うた。
「いいなあ、マーカス君。美人にこんなに構って貰えて。
じゃあ、何かい。一応聞いておくけどさ、キミは俺達に動くな、って言いたいのかい?」
「少なくとも尚早です。第一、誰が赴くというのです。
エデンの平穏は、この予選は――極めて繊細なバランスの上に成り立っている。
まあ、時を待たずに始めたいのなら僕は一向に構いませんけど。
困るのは僕を軽薄に誘うような不埒者の方ではありませんか?」
「……一本取られたね。くくっ、了解だ」
ディオンは降参とばかりに両手を上げる。
リ=ルとエイ=ルの双子は「わたし/ぼくも賛成」と頷いた。
二人の場合はここよりも割り当ての世界を壊す方に執心だ。双子は比較的マリアテレサに好意的な方だったし、何より。子供めいた残酷さは大人の世界の事情何てものをしばしば無視するものだから。
「話は概ね済みましたね。
地球の事は適当な天使にでも任せたら宜しい。
力天使を、或いは足りなければ主天使でも。まあ、無いとは思いますけど、座天使も智天使も残っている。
……優雅に、美しく。熾天使に相応しいスマートで、です。
無駄に抗う彼等でじっくりと愉しむ事こそ、お父様に選ばれた僕達に相応しいではありませんか!」
「ま、お好きに遊ばせ」
「私も構わないわよ。テレサちゃんのしたいようにしたらいいわ」
蒼薔薇の天使とシスターの天使が同意する。
マリアテレサの視線は二人から聖衣のアレクシスへと移っていた。
「……………」
「不満ですか、アレクシス」
全て分かっているような顔をしてマリアテレサは軽侮した。
「いいえ、ちっとも」
薄笑いで首を振るアレクシスは何も言わない。
結論から言えば任務はまだマリアテレサの預かりという格好になったという事だ。
そこにどれ程の不満があろうと彼女は全く頓着していない。
それが故にマリアテレサ。それが故にグレイヴメアリー。至高の、一。
「さあ、話は終わりです。ミミ以外には用はありませんから――精々お努めなさいな。
長い、長いロスタイムが全て徒労に終わらないように。未来の事に、ね!」
「くぁ――」
手招きしたマリアテレサをお目当ての猫――ミミは再度の退屈そうな欠伸で袖にした。