そして宵が過ぎゆく――


 影が差す。
 影が差す。
 暗き影が差す。
 宵の刻は過ぎ去りて。
 明星に続けと、星が生涯の色を瞬く空を影が差す。
「……紗穂さん、あれ、なに?」
 月雲 千星が震える声で桟原 紗穂(r2p001695)の腕をちょんと摘まんで指さした。
「ん? どうしたの、チセさん……」
 千星の指さす方を見やれば、そこには雲があった。
 黒い、黒い雲である。空を閉ざすように揺蕩う黒い雲だ。
 果たして、それは本当に雲であろうか――否、否! 決して雲ではない。雲であっていいものか。
 噴き出すように空へと打ち上げられたが鎌倉結界の一部に滞留していた。
 澱んだ黒は瘴気と呼ぶほかない生理的嫌悪を呼び起こす。
 月雲家と呼ばれた屋敷から溢れだした瘴気は、広がることなくその場所にしていた。
 鎌倉――仙泰、あるいは闡提が本性を現し事態が急速に最終局面クライマックスに向かいつつある、その最中の事である。
「なんだか、良くない雰囲気……」
 爬虫類のような瞳を細めて羽崎 楓奏(r2n000036)が言う。
夜刀神やつのかみ、ですか」
 立花 空葉(r2n000034)が月を閉ざした瘴気を見つめて言う。
「夜刀神……たしか、常陸国風土記、行方――茨城県行方市に存在していたという神の名前ですね。
 頭部に角を生やした蛇体の神であり、その霊威は『見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず』と呼ばれている……のでしたか?」
 即ち、一種の祟神であり、紛いなりにも正真正銘の神霊の一種――と言うことになる。
 土地の有力者は神の領域と人の領域との境目を定め、自ら神主・禰宜として仕えることでその神を祀っていたという。
 千星の母、月雲 歌燐――旧姓を麻生 歌燐と千星の父、月雲 紅牙は自分達は夜刀神の呪いを受けていると告げた。
 取れるすべての手段を取り、その全てで呪いから逃れる術がなかったが故に、娘を守るにはもう、天使となるしかないのだと。
「どうやらあんまり長く対策を考える時間は無いみたいだなァ」
 荒々しく金色の瞳を向ける久慈宮 華月(r2p000151)が言う。
「どうしましょうかね、斬って済むのであればそれでいいのですが」
 クラリッサ・クラーク(r2p002781)は紅の瞳で空を見上げる。
 この目で確かに見た、その神の姿は空葉の言っていた通り、頭部に角を生やした蛇であった。
 見た者全てを呪う神――ならば、クラリッサもまた、呪われているのだろうか。
 今のところ、そんな気配はなかった。
「……斬って、は。……なり、ませ……ん……」
 北靈院 命(r2p000308)は言う。
 その身でその神の呪いを受けかけた陰陽寮の娘は、言う。
「……あれ。は、真の、祟り神……斬れば、其の呪い、は。際限、なく……広がるでしょう……」
 命の言葉は静かに夜の空気に満ちていく。
「それに私、あの神様がそんなに悪い神様だとは思えないわ」
 そう声を上げたのは黙って千星のことを気に掛けていた蘇芳 菊蝶(r2p000425)である。
 天使化しかけた千星を説得するとき、其は菊蝶を見て自分の分霊を下げ道を作ってくれた。
 菊蝶を見てくれた神様の事を殺すというのは気が引ける。
「もう一度、真っ当に祀ることができれば、殺さずに済むかもしれませんね」
 空葉が言うのを聞きながら華月は千星の方を見た――正確には少女の傍らにある月の宝珠を戴く大きな杖を。
「風土記では夜刀神と人の領域との境を定めた時に大きな杖を用いたようです。
 チセさんの杖はその為に用意されたものかもしれませんね」
「それってつまり……千星ちゃんに夜刀神の巫女になれってことだよね?」
 紗穂がちらりと横を見る。千星が紗穂の視線に気づいて、目が合って小さく笑う。
「でも、その為には千星を夜刀神の直ぐ傍まで連れて行かないといけないんじゃないかしら?」
 Eila・Noir=Magna(r2p005670)は言う。
 視線を送った先にいる少女。つい先程まで泣きながら戦っていた子。
 天使になりかけたところを何とか食い止めることができた子に――それはあまりにも酷で重い仕事ではないか。
「それなのですが――せをりさんの『比売神の結界』が正常に作動しているうちなら、恐らくは大丈夫です」
 そう言ったのは空葉だった。彼女は再び夜空に揺蕩う瘴気の雲を見据え「推測の域を出ない話ばかりで申し訳ないのですが――」と口火を切る。
「比売神の結界は本質的には『封印』であり、があるようです。
 月雲家に……あるいは、私達に降りかかる夜刀神の呪いにも、その性質が作用している。この推測を裏付けるのがあの雲です。
 あれが漏れ出した瘴気、呪詛なら『あんな風に雲になって滞っている』のも不自然です」
「……せをりの結界があるうちは、夜刀神の呪いは一時的に封じ込められているということ? でもそれは――」
「えぇ……ですので、
 この戦いが終わって、せをりさんを休ませてあげるまでの間に、どのみち私達は夜刀神を沈黙させねばなりません。
 そうしなければ、どちらにせよ夜刀神の封印と呪いが蔓延してしまう」
 Eilaの言葉を繋ぐようにして、静かに空葉は言った。
「……こういうのは言い方はあまり良くはありませんが、あれが夜刀神であってまだ良かった。
 私達は既にその仕方を知っている。似て非なる得体の知らない何かよりも、まだマシかもしれません」
「……チセ」
 イドリス(r2p001664)は少女の方を見やる。
「もう少し頑張れるか?」
 琥珀色の瞳で少女を見つめたイドリスを見て、千星がこくりと頷く。
「あたしに出来るかな……」
 そうして、イドリスから目を離した少女が俯き言う。ぎゅっと紗穂の手が握られた。
「千星さん、無理なら他の方法を考えればいいよ」
 そう重ねた紗穂に、千星は「……怖い」と小さく言う。
 少女の瞳が揺れて恐神 斗鬼(r2p002287)の姿を映す。

 ――いいか。世の中、正しいか、正しくねぇかだなんて二択じゃ回ってねェぞ。
   間違ったっつーなら、次に正しいと思う事やれよ

 あの時に聞いた言葉は確かに斗鬼の声だった。
 震える少女の直ぐ傍に寄り添う燈森 紫空(r2p000637)の温かくてぽかぽかとした空気は少女の震えを、恐れをほんの少しだけ解す。
 あたらしくできたともだち。せっかくできた、たいせつなともだち。
 ともだちがきずつくのは紫空はかなしくて、かなしいことはいやだけど。
 いつかいっしょにマシロ市であそぶためには、生き延びなくちゃいけなくて。
「すごく、すごく怖いけど……あたし、頑張りたい。
 すごく怖くて、きっと、脚が竦んじゃうかもしれないけど……それでも頑張りたいから。
 イドリスさんや、紗穂さんと約束したの……マシロ市の海を見るって。
 紫空さんや皆と一緒に、沢山いろんなことしたいから……だから、あたしに、お手伝いさせて」
 ぎゅっと杖を握りしめた千星が、声を絞り出した。
 能力者達の方に向き直って、声を震わせる。

 ――さぁ、神様に会いに行こう。
 祟り神とはいえ、正真正銘の神様に。
 29年間、祀る者のいなかった神様へ会いに行こう。
 そうして、この時代の人間レイヴンズなりの、説得というものを見せてやるのだ。