
麗らかな
「お帰りなさいませ、我が至高」
掛けられたそんな声にマリアテレサは面倒臭そうな視線を送っていた。
主の一時の不在にも何一つ姿を変えない楽園の風景は静かにマリアテレサの帰還を待っていた。完璧なまでに設えられた白磁のティーセットは彼女の所在に関わらず、柔らかな湯気を上げ続けている。
「地上は如何でしたか?」
「見ていたのではありませんか?」
「勿論。御身に何かあったらと思ったらいてもたってもいられず。
……お陰で地上を何度か焼き払いそうになりましたとも!」
何時如何なる時、気まぐれな主人が戻ってこようとも――一分の隙も無く出迎えられるように。一見して無駄にも思える程に水も漏らさない差配を続けていたのは言うまでも無く彼女の智天使カイロスであった。
「馬鹿」
鼻で笑ったマリアテレサは地上で人間に告げた「僕をデートに誘ったら天雷が落ちる」という冗句の強烈な答え合わせに心底うんざりした。眺め回されていた事自体も実を言えば不愉快ではあったが、手を出さなかっただけマシと割り切る。カイロスは何処までも忠実だが、一つだけ我儘を譲らない男である。
――私の望みは一つだけ。御身の傍に在る事を赦されるだけです。
そのたった一つの面倒くささを許容さえすればカイロスは他に何も望まない。
恐らくその命を奪おうと切り捨てようと不平不満の一つも吐くまい。
楽園の中でマリアテレサの眼鏡に叶う能吏は彼一人であり、故にマリアテレサの我慢は実に合理的だった。
「……はあ。しかし人選を間違ったのかも知れません」
「私は薔薇の執事になれて毎日毎時狂喜乱舞、恐悦至極に存じますけど?」
「そういう所です」
嘆息したマリアテレサは上等なカップに薄い唇を付けた。
地上へ顕現したのはちょっとした用事の為だが、どうやらその本題はカイロスには伝わっていないと判断する。
(成る程。カイロスレベルでも見通させないか。
流石はアーカディア・ツーといった所ですか……?)
もしあの会談をカイロスが見知っていたのなら、特別な反応があっただろう。
異様に勘のいい男の事だ。
顕現が気まぐれ等ではない事は百も承知しているのだろうが――
「我が愛、我がマリアテレサ。望みは十全に果たされましたでしょうか?」
「まあ、一応はね」
適当に相槌を打ったマリアテレサはマシロ市で出会った幾つかの顔を思い出した。
マリアテレサが彼等に「人を覚えるのは苦手」と言ったのは確かな事実である。
だが、思い出せる位には幾つかの顔は印象的で彼女は静かにそれに驚いた。
(塵芥に区別を付けてどうなるかしら?)
理屈ではそうなるのだが、現実に残る結果はマリアテレサの論理を裏切っている。
それが唯の偶然か、気まぐれか、何かの意味がある事かは分からない――
「楽しかったですよ」
――分からないから、マリアテレサは結論を胡乱な一言に封じ込めた。
「何よりです。であらば、私が留守を守った事にも意義があろうというもの。
至高の居場所を! この私、カイロスめが! 楽園の隅々までを見渡し!
何一つの、塵一つの問題も起こさせぬまま――完全に守った甲斐があったというものでしょう」
「……………」
「恐れ多くも至高の御身に! 生涯ただ一度の我儘を認められ!
常、傍にいる事を赦されたこのカイロスが――半月に及ぶ留守番を務めた価値があろうというもの!」
(……………め、面倒臭い……)
マリアテレサはカイロスがどう言ってくるかを薄々承知していた。
悪魔は契約を重視すると言うけれど、マリアテレサはその名において認めた事を反故にはしない。
詰まる所、それはプライドの問題で――故にこの場ばかりは少々自身に分が悪い。
「麗しき至高より至上の栄誉を賜ったこのカイロスが半月も御身を離――」
「――ああ、煩い。黙りなさい。そして、着席なさい」
「!!!」
「今日のお茶会に同席する事を赦します。
但し、これ以上その良く回る舌を動かす事は控える事」
根負けしたマリアテレサの一言にカイロスは此の世で一番良い事でもあったかのように破顔した。
※参考:『少女と街角』『少女と街角(置きレス版)』