影法師


 水鏡を覗き込んで居た指導者シスター・ヒルダは指先でそれを掻き消してから出立の準備を整え始めた。
 全ての指示は月見里 月華(r2p002525)やカゲオミに与えておいたのだという彼女には縋るような目を向ける。敬愛する彼女がまたも何処ぞへか言ってしまう事への寂寞と、喪失感がの心を支配した事だろう。
 元より、彼女が一つの場所に留まり続けることの方が珍しかったのだ。
 蝶々のように花から花へと飛び回り、その足跡を容易に掴む事も難しい。
 ヒルダは様々な場所に足を向け、その地その地で自らのを作り続ける
(まあ、それでもどうやって天使様……しかも直属と知り合えるんだろうね)
 月華はじっとヒルダを見た。相も変わらず老いも感じさせぬ美しい女は視線に気付けば小首を傾げて微笑んでくれる。
「シスター・ヒルダ。次は何方へ?」
「さあ、どこでしょう。心向くままと言うべきかもしれませんわ。
 けれど、ええ……月華、カゲオミにも言い付けておいたけれど、ひとつ頼まれて欲しいのです。今ならば猊下の裁きが悪戯に我らを焼く事はありませんわ」
「うん、分かってる。ヴァルトルーデ様のお手伝いでしょう? うん、うん、そういうのも大事だよね」
「お手伝いだなんて、……ふふ、これはお節介ですわ。
 K.Y.R.I.E.迷える仔羊は御殿場に集っているようですもの。
 箱根山のに対応する彼等は見事なものでしたね。ですから、ご褒美を与えなくてはなりませんわ」
「褒美」
 月華はそう呟いた。
 ――ヒルダはだ。どの様な悪人であれど、自身と思想を同じくするならば博愛愛してくれる。
 だが、それはあくまでも人であるべきだ。天使を敵だと罵り屠るものを彼女は人間としては扱わない。
 虫をぷちりと指先で潰すことを厭わぬ様に、家畜を生きる為に殺す事と同じように、彼女はを殺す事を躊躇わない。
 彼女の言う褒美とはK.Y.R.I.E.の能力者達にとおき鐘の音を聞くチャンスを与えようという事だろう。
「それはいいかも。誘いたい人が居るんだよね、ヒルダ様」
「まあ、ふふ。それは素敵な事ですわ、月華。きっと良い結果になりますように」
「うん、うん!」
 まるで幼い子供の様に興奮した月華の瞳が赤く赤く輝いた。ヒルダは愛おしそうにその頬を撫でてから「準備をしていらっしゃい」と彼女を送り出す。
 小さな子供の様に跳ねながらその場を後にした少女を見送り、ヒルダがゆっくりと振り返った。
「カゲオミ」
「はい。我らが愛しきシスター・ヒルダ。
 我々の動きを邪魔する者が居りは思うように進んでおりません。
 口惜しいことです。
 小田原の守りを固め、奴らがマシロ市の外に出ている内に人員的補強を行う……天使様がその場を後にした鎌倉に、未だ発展途上の横須賀。人類の最後の砦であるマシロ市を陥落させることは難しいでしょうが、その周囲をこちらの糧にすることはきっと出来る筈だというのに」
「ええ。ですが、構いません。それよりも優先する事項が出来ましたもの。
 どうやらヴァルトルーデ様は今は重要な任務に赴いていらっしゃる様子――
 K.Y.R.I.E.精鋭に横須賀の護り手も外に出ておりますもの。
 旧御殿場市周辺に精鋭を集結させて簡易拠点を築いているのです。
 ――その背にナイフを届かせるならば、今でしょう?」
「ええ。きっとあまつ使いも喜んで下さいますでしょう! ならば、直ぐに準備を――」

 ヒルダの声色が変化した。ぴたりと足を止めたカゲオミが振り返る。
 美しい、柘榴色の瞳が緩やかに細められてから彼女はそっとカゲオミに手を伸ばした。その首筋に刻まれたを撫でてから綻ぶように笑う。
「あまり、守りを疎かにしてはなりませんわ。カゲオミ。
 相手はK.Y.R.I.E.……いばらを殺した人でなしは何をしてくるかは分かりませんもの」
「はい。我らが光、シスター・ヒルダ。理解わかりあえないというならば処分してしまえば良いのです。
 ……箱根付近で疲弊をして居る能力者達を抹殺し、あの人でなし共に世の在り方を知らしめてやりましょう」
 ヒルダは微笑んだ。「ええ、期待していますよ」と。
 小田原に伸びる影は、徐々に徐々にと迫り来る――