待ちわびた貴女へ


 いつだって南街の空は灰色に鎖されている。くすんだ空を作るこの空気が人間にとっては猛毒でしかないのも当然のことであるのだろう。
 フォーカポーカの手によって築き上げられ変質しきったこの町の空気は人間にとってはどうしたって害にしかなりえない。
 こうやってこの街の様子を探るのだって悟桐 紫恵那シェナr2n000219)にとっては慣れたものであっただろう。
 彼らの動きが中央街に影響を齎す以上、アザーバイド達の飼育者ブリーダーを気取る天使達の様子を見ておかなければならない。
(先生とマシロ市の人達がフォーカ・ポーカの王に謁見に行ったみたいね。あの人達なら成功させて帰ってきてるころかしら)
 この街の空気、フォーカ・ポーカの持つから身を守るには、彼らの棲まう拠点に咲く歯車の花が必要だ。
 それを得ることが出来、加工することも叶えばきっと、新しく出来たマシロ市の友人たちはこの街でより広く、より安全に活動することが出来るようになるのだろう。
 それはきっと飼育者連中にとってはあまり喜ばしくはないことのはずで、多摩にあった停滞の日々に変化が齎されることになる。
「あいつら相手に小競り合いをしてるだけの日々ともお別れできるはず。そうなれば――」
 召喚士イーリロスとも対決を出来るようになるはずだった。
 フォーカ・ポーカを使役し、この街に広がる汚染をいつだって広めることが出来るのだと無言の恫喝をしてきた男は今もこの南街の支配者として君臨している。
 そうして、彼の天使を討ち果たすことが出来れば。
 あぁ、そうなれば、きっと、彼らの来た場所に――マシロ市に行くことだって出来るようになるはずだ。
 シェナはこの多摩で生まれ育った。
 両親は死んでしまって、それ以来ずっと、ノエとアザーバイド達と暮らしてきた。
 決して、、たったそれだけの存在との共存関係は均衡の下で成り立っている。
 この南街を築き上げたフォーカ・ポーカは人間では生きていけない場所でしか生きていけない。
 と、何ともストレートな呼称のある小鬼たちは文字通りに
 彼らにとって、人とはのだという。イレイサーは美味ではなく、異世界の出身者オルフェウスは個体差が大きいのだと。
 この多摩南街は人が暮らしていくには外敵が多すぎる。

 ――それに比べたら、どれだけにマシロ市というのは美しく綺麗で、何よりも安全な町であるというのだろう。

 シェナはこの街のことが嫌いなわけではない。ただ、その町から来た人たちが居る。
 己を、世間知らずの一人の女を友人だと、そう言ってくれた人たちが居る。
 いつか一緒に、その町で買い物をすると約束をした。
 いつか一緒に、その町で食べ歩きをするのだと約束をした。
 いつか一緒に、その町へ遊びに行くのだと、約束をしたのだ。

 そして、その日はきっと、もうすぐやってくる。
「……楽しみね」
 ぽつりと独り言が漏れた。息を殺して、周囲を見て――誰も居ないことを確かめほっと胸を撫で下ろす。
「あ、その前にマシロ市に行く時に着る衣装を考えないといけないわ」
 この街では兎も角、マシロ市には沢山の人が居るのだという。流石に、このナース服を着ていくわけには行かないだろうか。
 一緒に仕立ててくれる友達だっているのだからそれも楽しみだ。
 女の子の友達とウィンドウショッピングをするのだって殆どしたことはなかっただろう。
 これから先、買い物も、お出かけも、食事も、スポーツも。
 友達になってくれた人たちと、もっと仲良くなりたって、楽しんでみたい。
 ああ、なんて楽しみなんだろう。そんな日が来るのが、待ち遠しくって。
 子供のように心が躍って、逸って仕方がなかった。

 くすくす

 くすくす

 いつの間にか、周囲が煙に覆われていた。
 少しばかりの先だって閉ざしてしまった煙は行く手も退き手も奪うかのように立ち込める。
 何が居るのかも、誰が居るのかもわからない、濃霧のような深い煙の中で、ただくすくすと笑う声ばかりが聞こえている。
「そんなにマシロ市のことが気になるんですか?」
 囁くような声がした。鈴の音を転がしたような声だった。
 その声を、シェナは良く知っている。
 いったい、いつぶりの声だっただろうか。
 懐かしくて、恐ろしくて、悍ましくて――ただ、震える手でナイフを抜いた。
「――んで」
 顔を覆うような仮面の下で、シェナは声を震わせた。怒気とも、怯えとも混じった声は彼女を喜ばせてしまうのだとしても。
「なんで、あんたがこんなとこに居るのよ……! アヴァリティア!!」
 叫ぶ声に合わせて霧が晴れた――晴らされた。
 擲ったナイフが彼女の手に払い落とされて、撃ち込まれた衝撃で身体が後ろに吹き飛ばされる。
 打ち付けられたショックで仮面は剥がれ、ナイフが地面に散らばった。
 体を起こして、出来ることはせいぜいが彼女を睨む事だけだった。
「もちろん、シェナに会いに来たんですよ。やっと、貴女がこんな場所にまでやってきてくれたんですから」
 。空に揺蕩い、愉快だとばかりに愛らしい笑顔を浮かべ笑っているのだ。
「ずっと探してたんですよ? いつだって中央街のドームの中に潜っちゃって出てこないじゃないですか。
 出てきたと思ったら私を避けてばっかり……でも、いいんです。漸く、やっと、此処まで来てくれたんですから」
 華やぐように満面の笑みを浮かべた天使がそう続けた。
 もうずっと前に癒えたはずの傷がズキズキ、じくじくと痛くて、シェナは眉を顰める。
「でも――でも、なんて、気に食わないんですよね。
 これは嫉妬か、怒りか――どっちでしょう。なんて、どっちでも、どうでも良いんですけど」
 そんなシェナの様子を気にも留めないで、宙に浮かんだまま、彼女は笑って言うのだ。
「……なに、を言ってるの? 何をするつもり?」
 歯噛みする、唇を食んで、笑う彼女を睨む事しか、出来やしない。
「ねぇ、シェナ――シェナも知ってますよね、エーデレッセンのこと」
 石畳をズシン、ズシンと揺らす足音と共に、それが顔を出す。
 美しく輝くは花弁を思わす水晶のたてがみ――それは竜にも似ていると、そんな風にノエは言っていた。
 それらは喰らった物を胎の中で宝石として蓄えることが出来る。
 それらの喰らう物は、だ。
 憧憬も、恋情も、執着も――それらは中でもエーデレッセンの好物であるという。
「こうやって会えたんです。こんなにも待ちわびたんです、それなのに、んです。
 ――だから、その要らない、きっと綺麗なその感情は、私がもらおうって、ね」
 そうして――彼女が笑って、エーデレッセンが口を開く。
「――や、やめっ」
 一番近くに在ったナイフを拾い上げて投げつける――それはアヴァリティアに叩き落とされた。
 逃げようとして立ちあがった足が縺れて、強かに石畳に倒れ込む。
 そんなシェナの身体を影が覆いつくす――
「あんまり暴れないでください、シェナ。その角の時みたいに、貴女を傷つけたくなんてないんですから」
 背後から聞こえてくる声はまるでもったいないとばかりに笑っていた。


多摩南全体シナリオ『彼方とのグレンツェ』




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