君去りて


 天使ならば天使らしくあれば良い。であろうとも分かって居るだろう――

 力天使級ラファエラ・スパーダと初めて相対した時に、崖の端から飛び降りるか、それともこの場で首を掻ききるかの二択しか進路がないと、そう思った。
 それだけ己が矮小であるのだと思い知らされたのだ。
「それでも、おれはだから」
 ただのちっぽけな命だと愚弄するならばそれでも構わなかった。
 この身が朽ちて、伽藍堂になった涯てに、骨の髄にまで染み付いているのが人間らしい浅ましさであればそれで良い。
 生き汚いと罵られたとて構わなかった。天の御遣いのお役目など、などどうでも良かった。
 人間として、生きて人間として、死にたい。
「ラファエラ・スパーダ」
 静かに冷えた声音は凍える風と共にやってきた。
「ぼくがそいつを拾ってやる。玩具になんて構っている暇も無いだろ」
「我々に、その様な時間はないのだ、スティーリア・キノス」
「おまえがぼくに文句を言っているその一分一秒だって惜しいだろう。
 成り代わり如きを飼い慣らして、芸を覚えさせるよりお得意の素晴らしいご使命とやらを遂行しろよ。
 それとも、何か。ぼくの暇潰しにまでも口出しをするつもりか?」
 眉を吊り上げた『凍土の天使』スティーリアに眼前の女は、ラファエラは首を振った。
「勝手にすると良い」
「……だとよ、ぼくと来いよ。栞田かんだ 花束かづか
 どうしてと、聞く事さえも手間だった。
(どうして、今更そんなことを思い出したんだろう。
 おれは沢山の間違いを犯して来て、いいや、違う、時折、何を間違えたんだろうと考えるんだ)
 一体何処が最初の誤りで、どうすればよかったのか。
 いつだって、その事ばかりを考える。
 在り来たりな不運だった筈だ。K.Y.R.I.E.の能力者が作戦行動中に無数の変異体に襲われるなど。
 何とか一人でも逃がすことが出来たのは幸運だった。旧世代ヴェテランの彼女ならば土地勘があった。
 その近くに先遣隊らしき姿を見た彼女は救援を呼びに走って行った。弾かれるように飛び出して、転げても気にする事も無く。
 符はまじないの気配を得て身を守る術式へと転換された。なけなしの力を振り絞ってSOSを叫んだ彼女の姿だけを最後は覚えて居る。

「せをり……陽陰……」

 あの時、救援を呼びに行った古月 せをり彼女は無事だったんだろうか。
 マシロ市に残るといった篠 陽陰あの子はその後も幸せに生きていられるのだろうか。
 どうして二人を捜しているのかも分からない。もし、生き残っているならば。きっと、鎌倉だ。
 鎌倉に行かなくちゃ。あれ、どうして、行くんだったっけ。鎌倉に行けばせをりが。せをりって誰だっけ。K.Y.R.I.E.の仲間達と合流できたんだろうか。K.Y.R.I.E.ってなんだっけ。スティーリア。氷。人が死んでいる。ああ、此の儘世界なんて滅びて――

「まだこんな所に居たのか、栞田」
「……スティーリア……」
 栞田 花束は刻陽学園にかつて在籍していたK.Y.R.I.E.の元能力者であった。
 栞田 花束は任務中の不幸で不出来なアクシデントで告解へと至った権天使である。
「矮小な人間如きが横須賀基地の攻略を狙っている。
 地上拠点を放棄しても良いなんて言われちゃいない。決戦の時は来るだろう」
「……そう」
「ぼくの領域にあいつらは土足で踏込んだ。その内、ラファエラは駆逐を命じるだろう」
「……それで?」
「気紛れだよ。おまえがどんな顔をするのか見たかっただけ。
 ああ、でも、もうだめだな。おまえ、何も覚えちゃいられないだろ。大好きな古月せをりって女の事まで忘れてる」
 からからと明るく笑ったスティーリアは壊れた玩具を放り捨てるかのように距離をとった。
「どこへだって行けよ、栞田。事が先に動くのは横須賀だけれども、おまえはそんなこと興味もないだろう。
 横須賀に来たっておまえはただの同族殺しにぶち殺されて無様を晒すだけだろう。
 見たか? 昔はおまえの仲間だと指差してやってもあいつらは生き残る為だと平気で天使を殺すんだ。
 おまえの好きにすれば良い。横須賀でも、鎌倉でも。ぼくは飼い主としておまえに選択肢を与えに来ただけだ」
「選択肢……?」
「ああ。ぼくは横須賀基地の内部にあいつらが入って来たならばラファエラが何と言おうとも殲滅を開始する」
「殲滅……」
「基地内の人間を全て凍らせ殺して、奴らの拠点にまで攻め入ってやるつもりだ。
 氷取沢を壊滅させたら次は、あいつらの本拠地を一気に凍り付けにしてやればいい」
「……本拠地?」
「そうだよ。横須賀基地内部で事を構えたら、流石のラファエラ・スパーダだって許可をするだろう」
 凍える気配を纏うスティーリアとて抑圧された一人なのだ。苛立ちが周囲に漏れ出でた凍風となって全てを覆い尽くす。
 その現象に恐怖など覚えることもなくなった花束は白い吐息を吐き出してから呟いた。
「いけないよ。死ぬならば太陽が美しい日に」
「おまえは、本当に詰らないな」
 スティーリアは鼻先で笑った。それから「一応は伝えたからな」とそう言ってから背を向けた。
 柔らかな黒髪にアネモネが揺れている。どこかはにかんだように笑ってから、彼女は言うのだ。

 かづの青い瞳がうちは好きよ。きらきらで、海みたいで綺麗。
 いつか、海のかおりを感じて、宝石箱のようなあの海原を見に電車に乗ろう。
 その時は、みぃんな一緒よ。夕焼け空になるまで一緒に遊びまわるんよ。……約束ね。

 あの、約束は誰としたのだったっけ。もう、思い出せやしなかった。


「――かづ?」
「どうかしたか、
 女は暗い屋内に向ってそう声を掛けた。の風を感じる事の出来ないその場所で少女は小さく首を振る。
 長く伸びた黒髪に青空のような軌跡が踊る。刻陽学園の制服を着用していた娘はふるりと首を振った。
「ううん……気のせいやわ」
 指先に絡まる糸は、もう解れてしまった。
 少女は眠くなってしまったとその瞼を伏せった。その地は、未だ遠く――