
PM12:54
「……さて、もう始まっている頃でしょうね。横須賀基地の戦力は強烈だ。
かぐらさんの危惧通り、きっと相当の事になっている頃合でしょうか」
何の焦りも無い調子がいよいよ非人間的である。
涼介・マクスウェル(r2n000002)は眉間の上に指を当て、度の入っていない眼鏡を涼しい仕草で持ち上げた。
「……私はどうしてここに呼ばれたの?」
2052年の初冬、少女は――雪代 刹那(r2n000001)はこのマシロ市に保護された。
記憶を消失し、前後左右も――自分の名前さえも覚えていなかった彼女にこの街が居場所を与えた事は事実である。
だが、その後の状況はその恩を計算に入れたとしても彼女にとって喜べるようなものではなかった。
「ずっと、施設から出ないように言われてきたわ。
……逃げ出す心算は無かったけれど、厳重過ぎる程に見張られていたと感じていた。
それなのに、どうして急にこのオフィスに呼んだりしたの?
今までだって用がある時は貴方の方から来たと言うのに――」
他人と関わる事が極端に薄かった刹那の境遇において、この涼介は実に貴重な来訪者だった。
――どうですか、マシロ市での生活は?
外に出れないのは不満だと伝えると涼介は困ったように言ったものだ。
曰く検査が必要であるとか、曰くこれは君に問題を生じないようにする為の措置なのだ、とか。
(全てが嘘には思えなかったけれど)
聡い刹那は分かってしまう。
涼介の言葉は同時に全てが本当であるとも思えなかった。
……原因も恐らくはこの男に在る訳で。
刹那にとってこの何を考えているか分からない恩人は何とも複雑な相手である。
半ば軟禁状態にあった刹那は外の、或いはマシロ市内の多くを知っている訳ではないが、それでも一定に入ってくる情報は存在した。
マシロ市は外部から頼って来た人類を多く受け入れている。
つい春先に起きた大量のフレッシュ達の時代合流による大騒ぎ等はその最たる例だ。
刹那はやはり分からなかった。
自身と彼等で何が違うのだろうと暇な時間、幾度も幾度も考えた。
確かに記憶喪失をしているという特異性はあるが、時間漂流をした者が多数居る中でその程度のインパクトは大した話にもならないように思えていた。
「――那さん?」
「……あ、はい」
刹那は涼介を前についぼうっとしてしまった事を反省した。
彼に悪いと言うよりは、こんな訳の分からない状況でそんな風にしてしまった自分を戒める為のものである。
「それで、貴女をここへと呼んだ理由ですが」
「……」
「貴女にはこれから私に付き合って頂く事になります。
どうしても必要な用事がありまして、同時にこれは貴女にしか出来ない事なのです」
「私にしか出来ない事……?」
ニコニコと笑う涼介の真意が掴めずに刹那は小首を傾げた。
戦う事も出来ない――より厳密にはその訓練をしていない――市内の状況さえも把握していない。
そんな小娘にこの万能を地で行く男が何の用件なのだと身構えずにはいられなかった。
「はい。とても余人には代え難い役割があります。
どれ位大切かと言うとね。人類の未来に決定的に関わる程度には重要なお話です」
「――――」
息を呑んだ刹那に涼介は目を細めた。
より厳密に言うのならば、実を言えば刹那の先、ガラス張りの向こうで掻き消えた影を見ていた。
「どうですか、刹那さん。協力して頂けますね?」
涼介は一瞬過ぎった酷薄な嘲笑を当の刹那に気取らせる事は無く、形だけの同意を取る。
圧力は十分だった。有無を言わせぬ調子は同時に相手が断る事を想定の内に入れていない。
……確かに。涼介は市政の絶対者であり、自身の保護者である。
現状に不満こそあれ、この街を出て刹那に生きていく術はない。
困惑する刹那は逡巡するも「内容によるけど、私に出来る事なら」と応じる他は無い。
「素晴らしい!」
そう拍手する涼介が自分にとって酷くとんでもない事を企んでいない事を祈り、信じて。
「そう気負わずとも構いませんよ。責任は私が取りますし――何より。
これは刹那さんにとって望ましい変化です。この後は、これまでより自由な生活をお約束出来ますし。
……ええ、どうぞ信じて下さい。貴女も愛すべきマシロ市の仲間に違いないのですから!」
目は口程にモノを言う、という言葉をきっとこの男は知らないのだろうと確信した。
だが、それでも。
(……多分、嘘自体は存在しない)
刹那は今日、この時に。横須賀基地攻略作戦を契機に――自分の運命が再び動き出した予感を禁じ得なかった。