
最も旧き天使
「どうした事かと思ったら」
そう零したアレクシス・アハスヴェールの顔は苦虫を嚙み潰したような渋面だった。
彼と「あちゃあ」と言わんばかりの顔をした力天使バルトロの表情が物語っている。
これが楽園であるならば何という事も無い些事である。しかし……
この地上に不必要かつ想定外に強力な天使が集った事は仮の玉座にて悠然を抱くアレクシスに不測の――そして極めて有難くない状況が起きた事を告げていた。
「君とは一体何時振りですか。
楽園にも寄り付かない野良のはぐれ者が私を表敬する殊勝さを持ち合わせているとは思いませんでしたよ」
「生憎と自称楽園は俺には退屈でしてね。御身とは……少なくとも三桁振りか。
相変わらずのようで何よりですよ。野良犬は兎も角、高貴な御方とこんな場末で出会ったのはどういう訳かって話にはなりますがね」
アレクシスの強烈な皮肉はまともな天使ならば震え上がるような意味を持つ。
首筋に匕首を突きつけられてもへらへらとした笑みを浮かべているのは流石と言おうか……『崩天』と呼ばれるミハイルという天使の性質を良く表していた。
(……………おいおい、何しに来たんだ。災害系男子)
眉をぴくりと動かしたバルトロが一瞬即発に備えて腰の剣に手を掛けた。
首筋を伝い落ちる汗は軽薄なようでいて聡明なバルトロの判断力の賜物だ。
アレクシス・アハスヴェールは彼方、己の割り当てで世界を滅ぼす事に邁進している。
つまる所、この地上に今在るのは知られざる事実であり、公的な事実と異なる。
十重二十重の準備でマリアテレサを欺いても、ミハイルから密告でも飛んだなら全てが御破算になる可能性は否めない。
(……やっぱり今はまずい)
本来ならば主天使のミハイル如き、至高のアハスヴェールの相手になるものではない。
彼の目的が何処にあるにせよ、この遭遇を無かった事にするのは簡単な作業の筈だ。
しかしそれは偉大なる主人が完全であったならの話である。
(荒事になったら手間取る。
作戦中で麾下が出払ってるのも――狙って来やがったな、この野郎!)
熾天使に地ならし等必要な筈が無かった。
顕現に先立って邪魔者を排除しようとしたアレクシス一派の動きそのものが地上における彼の現状を告げている。
「なアに怖い顔してんのヨ、バルトロちゃん! その可愛い顔が台無しヨ!?」
内心で臍を噛み続けるバルトロに黒い肌の巨漢――但しその仕草はどうにも女性めいている――が快活な声を掛けた。
長い睫毛の切れ長の瞳でばっちんと音がしそうな位の大きなウィンクをみせた彼はイサーク・サワ。
古くからミハイルとつるむ武闘派の力天使で、一派と見做されている人物である。
「アンタも変わらないねェ」
「あら!? お肌の調子はここ五十年位は絶好調なんだけど!
久し振りにあった女の子にはちょっと気の利いたイイコト位言っておくものヨ!?」
「女の子にはな」
「ん、もう!」と憤慨した顔をしたイサークにバルトロは肩を竦めた。
やり取りだけを見るなら如何にも掴み所の無いふざけた男だが、バルトロは彼の危険な性質を嫌という程知っている。
「相変わらず君の麾下は愉快な人物揃いのようですね」
「お陰様で。そいつが売りなんで。俺も含めて」
「それで? 物好きに地上に残った天使がこのタイミングで私の前に姿を現すには意味があると思うのですが?」
「そりゃあ勿論。お互いに無意味に危険な橋は渡らないでしょ」
目を細めたアレクシスとミハイルが言葉を再開したのと同時にバルトロとイサークの双方が軽口を弁えていた。二人は緊張感に和やかの表層を張り付けて、お互いの王のやり取りをまんじりともせずに見つめている。
「至高の五番におかれましては。
地上でお食事の計画でも立てている、といった所でしょう?」
「……………」
「駆け引きはよしましょうや。徒に話がややこしくなる。
一番様にチクろうって事ならまず今この場に居ないでしょ」
口角を上げたミハイルの直截的な物言いにアレクシスは薄い冷笑を浮かべていた。
「主天使風情が良く囀る。
しかし、機を見るに敏とも言えるでしょうか?
まるでこのタイミングならば交渉になる、とでも思っているようだ」
「少なくとも御身からすりゃ一番嬉しくないタイミングの筈ですがね。色んな意味で」
「……」
「……………」
更に暫しの沈黙を経て、先に話に折れたのはアレクシスの方だった。
「それで? 君の望みと狙いは何です?」
「望みは御存知の通りより強くなる事ですがね。
一先ずここに来た理由は、御身に協力しようと思ったからですよ」
「……協力?」
「地ならしで実感した頃でしょ? 地上の残存連中は案外強い。
少なくともこの世界の片隅には主天使級が残ってる。
まあ、その辺りのケアもしているでしょうが――不測の事態はこのように或る日突然やってくる」
「君の一派が我が麾下に入る、という事ですか?」
「それは言い過ぎかな。俺達は精々がお手伝いです。
ただ――マリアテレサがまずいと思うのは貴方だけじゃあないのは事実だ。
言ったでしょ。俺は最強の天使を目指しているんですよ。
少なくともあの女一強じゃ困る。本戦で貴方と彼女が共倒れ、てのが理想でしてね。
……ああ、御身の前で実に不敬でしょうがそこは許しといて下さいな」
「話をこちらに持ってきている時点で一定の理屈はなくもない。
あとは私が君を信じるか、ですか?」
アレクシスはミハイルを値踏みするように見た。
(……たかが主天使風情だが。
何を考えているか分からない男だ。最も旧い天使の一で……大半のアーカディア・イレヴンよりも古株。
長い時間を掛けて主天使まで昇ったと聞く。
現有のどの番号の下にもつかず、勝手な活動が許されているのもその長さと一応仕事を果たしているが故。楽園での謁見なら今すぐにでも思い知らせてやる所だが……今大事にすれば計画の全てが無に帰す、か)
アレクシスの選択肢はミハイルの話を承知するか、彼を黙らせるかの二択である。
組まずに帰す事は有り得ず、黙らせるには主天使程度を捻じ伏せる出力は不可欠だ。
「……」
「……………」
じりじりとした時間は長いようでほんの数秒だった。
「……条件を聞きましょう」
「そうこなくっちゃ」
渋味を増したアレクシスの言葉にミハイルは今日一番の笑顔を見せていた。