
白蛇奇譚『桂里奈』
ゆらゆら、ゆらゆら。
意識の漣は寄せては返す。
ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら。
目覚めねばならぬ理由も無く、永劫の今生も意味を成す事も無く。
なればこそ、長き夢はすでに現との狭間も曖昧ともなりて――
事無き世は神無き世、神無月は軈て神無世となる、と宣ったのは昔行合わせし僧であっただろうか。
胡乱な意識が自問すれば、嗚呼。何と業腹である事か。
あの糞坊主めが。夢幻の如き人身で後を見据える目を持つか、仏道に言う悟りの境地にでも到っていたか。
ゆらゆら、ゆらゆら。
すでに我が身は安寧の中で目覚めを放棄し、消え逝くを待つのみ。
九頭龍大神と呼ばれし我が身、思考するは部位に過ぎず。
それは神たる顕現の一片にも足りず、その価値は神威のそれに能わず。
我は最早この三千世界に戯れに浮きし第六なる残滓に過ぎぬ。
……否、不満はない。是もまた良し。神無世を他の我が受け入れるなら、我とてそれに異論は無い。
故に、これは唯……刹那の後日談に過ぎぬのだ。
「……へびちゃん」
切っ掛け等というものは往々にしてくだらない事由でしかない。
否、それがそんな上等なものであったかも知れたものではない。
我が意識が浮いた時、齢五つになるかならぬかという童子が此方を無遠慮に見ていた事に気が付いた。
ほう、と正直を言えば感心した。
……芦ノ湖の水面の如き光を宿す目は唯、世の穢れを知らぬ輝きのみを映している。
そんな無垢には畏れはない。敬意も無い。
感心を撤回して、考え直した。
ヒトは愚かなものであった。
幼子の無知蒙昧を、等しくこの子供も持ち合わせていただけだ、と。
故に。容赦はせん。容赦をすべき故も無い。
『神を不躾に直視する等、当然の如く万死に値せん』
貴様の死はいずれ新たなる逸話となろう。その死もまた無意味では――
――毒龍たるは是迄。その言に相違はありますまいな
物理に非ず、仮にそんな器官が無かったとて。
『耳』の奥に――魂の奥にこびり付いた宿敵の声は大顎を開きかけた我を制止した。
――神なる御身の誇りをかけて、よもや相違はありますまいな?
嗚呼、糞坊主め。念を押すな。
分かっている。分かっているとも。我は確かに貴様にそう約定した。
かつて第一が貴様と紡いだものは、この第六にも引き継がれている。
なればこそ、何処ぞに消えるが良い、幼子よ。
何処の何者とも知れぬが、この社でその衣を纏うのであれば蛇の縁起、知らぬでもあるまいに!
「おいで、へびちゃん」
愚鈍蒙昧ここに極まれり!
……毒龍の棲む社で、我が神気に触れてこの蛇に何の警戒もせぬだと?
これは最早、生物としての欠陥だ。百獣を捻じ伏せ、人理を降す我が神威を微塵も知らぬか!?
「だいじょぶだよ、へびちゃん。
このおやしろではね、へびはたいせつにしなくちゃいけないんだって」
分かっている……と言うよりも我がその理由に他ならない。
……童子特有の身勝手さで己の都合だけを語る様はほとほと我を辟易させた。
そして遅ればせながらに思い知った。
恐るべきことに、童子はこの有様でこの呼び名で。「へびちゃん」に敬意を含むようだ。
時の流転たるや、恐ろしきもの。筆舌尽くし難きは不敬の極み。
この童子が微睡みの今世を象徴するなれば、やはり神が存在に意義はあるまい!
「そんなところにいるんだもの。おなかすいてるんだよね?
ごはんよういするよ。すきなものはなあに?」
……喰らう、も忘れて幾星霜。
この童子には無垢な善意の他が無い。知性も理解も無い。されど打算も思惑も無い。
九頭龍大神としては、無私なる奉仕に褒美の一つでも授けるべきなのだろうか?
「ね、いこ、へびちゃん。おいしいのあげるよ?」
我が逡巡を暴力的な童子の動作が遮った。
こ、この小娘! 我を掴むだと!?
おのれ、離せ! 縄ではない。振り回すな!
不敬! 不敬の極みにも程があろう! 貴様、巫女! 祭神を何と心得る!?
……嗚呼、糞坊主め。貴様との約定はもう充分に守ったぞ。
是非も無し! この上何の文句も受け付けぬ!
嗚呼、そうだとも。その小さな頭を捥いで……
「縺昴?鬆ュ繧偵¥縺?縺輔>縺ェ」
……捥いでやろうと思った矢先に。
我が眼は見たくも無いモノを見付けてしまった。
小娘の背後に胴体より大きな頭に、口が耳元迄裂けた女が在る。
「繝懊Μ繝懊Μ鮨ァ繧峨○縺ヲ縺上□縺輔>縺ェ」
九頭龍大神の社を、下等な怪異如きが我が物顔で闊歩しておる。
あまつさえ、不出来とは言え巫女の衣を纏った童子を丸呑みにしようとは。
不愉快極まる。童子を喰らうが我であれば権利だが、塵芥に認めた覚えは無い。
成る程、成る程。真に不敬たるはこの怪異であったか――
――キン――
その澄んだ音は人の耳の聴く音ではない。
怪異を滅する浄なる波は社の無礼者を未来永劫撃滅せしめた。
童子を仕置きしてやる事にも興が削げ、頬も動かぬ冷笑を浮かべた我の耳にまたもおかしな言葉が届いたのはこの瞬間の出来事だった。
「お、おみみ、いたいよう……!」
……聞こえた?
我が神性さえも見定めず、神気にも畏れぬ『不感症』が?
歴代の巫女でも僅かな例外を除けば知る事さえ出来なかった浄音に反応しただと?
僅かな興味がもたげた事は否定出来なかった。
もう少し確かめてみようと近づけば、何やら慌てたように走ってくる音がする。
「こら、桂里奈!」
ヒトの大人。なりからすれば神職。確かここ十数年の宮司である。
続いて響く軽い音。
「一体何をしてるんだ……その有様、それは……何だ。
お前、どうしようもない位に不敬だろう」
「へびちゃん。おなかすいてるから」
宮司は思わず言葉を失う程にそれを思い知っていたらしく。
頭をはたかれた娘は懲りない――言い訳にもならない言い訳を受けて、長い溜息。想像するにこの娘はいつも『こう』で、純粋たる善意である事を察すれば――ヒトの親であるこの男は何も言えないのも合点は行く。
……嗚呼、もういい。喰らわぬ。許したぞ。
しかし、成程。小娘の名は桂里奈というか。
「だとしても、そんな掴み方は駄目だ。蛇様だって苦しいだろう?」
小娘……桂里奈はそこで漸く、何かに気付いたような顔になる。
浅慮である。無礼千万である。だが、気付きや良し。
「……ごめんなさい、へびちゃん」
「蛇様だぞ、桂里奈」
「へびサマちゃん」
神職の男は何かを諦めた表情になると、我に頭を深々と下げる。
「申し訳ありません。私が代わりにお詫びいたします」
「ごめんなさい、へびちゃん」
また『様』がとれているが……まあ、そんな事はどうでも良い。
「ねえ、おとーさん。このへびちゃんサマ、かってもいい?」
「……本当に申し訳ございません」
世は全て事も無し。あまりに、あまりに益体も無い。
考えてみれば、実に果無し事よ。何処にでもある親子の姿を見せられているに過ぎぬ。
茶番は終えた。我が慈悲に感謝せよ。毒龍はこれにて眠る――
「ねえ、へびちゃん」
声色が少しだけ変わっていた。
……ん? この小娘、よもや。
「わたし、へびちゃんみたいなこははじめてみるの」
この小娘、あの糞坊主と同じだ。
先刻の浄音、童の戯言に非ず。偶然でも無かったという事か。
成る程、確かな才をもっておる。
神と繋がりし神子の才。そうか、それ故に幼くてその装束かと合点した。
我が目覚めたのも、或いは……この『桂里奈』と呼応したやも知れぬ。
縁。成程、縁か。とはいえ、我と縁を繋ぐ事が幸福とは言い難い。しかし……
――九頭龍大神、果て無きこの地の毒龍殿。我が友人よ。
お分かりか? 縁とは異にして妙なもの。
その不機嫌面も別の世ならば綻ぶ日も来るのではありませぬかな?
――糞坊主。貴様が逝ねばそれもすぐに叶おうぞ。
――一本取られましたな、毒龍……いや白蛇殿。
ではその至極愉快なり務めは後進に委ねるとして。
拙僧とはそこな御神酒で乾杯でもいたしましょうか!
――この業突く張りの生臭め!!!
振り返りし刹那は一体どれ程前の出来事なのか既に我は覚えていない。
坊主の語った後進は現れず、我は今も此の世を厭うている。
一刻も早く死ねと思っていた糞坊主が消えた後の世を退屈していた。
「……へびちゃん?」
……縁。縁か。確かにこれも、宿命やも知れぬ。
恐らく我が心は気の迷いで説明出来るものだった。
少なくともこの始まりは、何ら特別性のない――たかだか数十年の暇潰しに他ならぬ筈であった。
だが、何れにせよ我は選んだ。
暫し桂里奈の行く末を見守るも良しか。福へ向かうであれば良し。凶へ向かうであっても……まあ、そのくらいはどうにかしてやろうではないか、と。
「へびちゃん。わたし、かりなっていうの」
「へびちゃん、へびちゃん」と相変わらず童子の甲高い声は馴れ馴れしい。
だが、不思議と我はもうそれに苛立ちを抱く気にはならなかった。
「へびちゃん、わたしとおともだちになってね」
ただ、その不敬をどうにかせよ、桂里奈。
難しい事は言わぬ。まずはそこから始めようではないか?