
白蛇奇譚『揺り籠の死』
真っ白な身体、白い翼、そして頭の上の輪っか。
物凄く気持ち悪い造型であることを除けば『天使』を連想するだろう、そんな何か。
そう、『何か』だ。私はそっちの宗派じゃないけど……こんなもの、天使だなんて認めたくない。
四月一日の出来事。それは酷く冒涜的だ。
私たちの信じた全てを冒涜するような姿で、天から舞い降りる。
笑う……嗤ってる? その意味を私が理解するより、早く。
「……っ……!」
ぐちゃりと。枇杷の実か何かを潰すように人間の頭が潰れた。
天使が――そう呼ぶしかない何かが無慈悲に無残に、私の目の前で人の頭を踏み潰したのだ。
胸の奥で火が燃える。焼け付くような吐き気がする。全身が怖気立つ。
現実なのだ――これは。
下手に非日常の経験があったから、認識すれば頭が冷えるのを他人事のように自覚してしまった。
敵。これは……間違いない、敵だ!
――聖なるかな。
不思議と疎通する言葉は果たして意味を持ってはいなかった。
「何それ! 意味、分かんない――!」
唯、それが私に――いや人間に明確な殺意を持っている事だけは明らかに思えた。
振り出されたのは奇妙に大きい槍。多分、私よりはずっと強い。
時間はない。速戦即決、威力よりも……まずは速度!
「清め給え洗い流し給え、害気攘払、悪鬼追逐、九頭龍大神に願い奉る!」
不思議とこの時の詠唱は何時に無い位に滑らかで、私は自分に出来る最速の攻撃を叩き込む!
九頭龍清浄波。即ち、大社に伝わる神力――浄化の青い波動が天使を消し飛ばす。
「す、凄い……!」
「やったぞ、化け物が死んだ!」
「ざまあみろ!」
周りの人達が歓声をあげる。
……そうだ、周りの人達だ。
たとえ真夜中であったとしても街中にこんな怪物が現れたら大騒ぎになるに決まっている。
(鈴木さんは――神祇院の人達は……!?)
そもそも私が大社を降りて今日街に居たのは神祇院の仕事を済ませたからだ。
時間が遅くなった事と、周りの人に引き留められた結果、お父さんに許可を貰って今夜は街に泊まる事にした所だったのだ。
(……いや、これは神祇院の仕事とも違う。それはちゃんと終わった筈……!)
神祇院からの依頼は小さな怪異の退治に過ぎなかった筈だ。それは間違っても、こうじゃない。
街のあちこちに火の手が上がっている。暗い空に羽の生えた何かが沢山飛んでいる。
路地の向こうから、大通りの向こうから白いのっぺりとした天使が生意気な敵――私の様子を窺っている。
間違っても、こんなじゃない!
「ね、ねえ。桂里奈ちゃん。もう大丈夫なのよね?」
「……」
「で、でもおばさんびっくりしたわ。桂里奈ちゃんは巫女だけど……
まるで漫画とか映画みたいにおかしな怪物をやっつけちゃったから……」
「あー、撮っとけば良かった! 流石九頭大社の巫女って事じゃん!?」
「逃げて」
「え、でも桂里奈ちゃんは強いから近くにいた方が」
「だ、大丈夫だろ? 残りの奴もさっきみたいに桂里奈がばーってやっつけちゃってさ」
自分を誤魔化す為かも知れない。
皆、口々に気楽な事を言っていた。
土産物屋のおばさんも、金髪の見た目の割に気の弱い所があるお兄さんも。
彼等が早口でそう言うのは自分を安心させたいからの他は無いのだろうけど――
「――逃げて!」
私の目が彼方の天使の剣撃の、その軌跡を捉えた時。既に時は遅かった。
「え?」
お兄さんの頭が柘榴のようにぱっくりと割れていた。
新しい天使が翼を広げる。持っているのは……今度は大きな剣。
こんなのおかしい。間違ってる。夢なら覚めてくれたらいいのに!
……でも、でもきっと。きっと考えてる暇はない。多分今度は詠唱している暇も無い。
私はもう自分が怒っているのか、泣いているのか、分からない位に状況に押し流されていた。
冷静さ何て何もないままに、ただ幸いに繰り返してきた訓練のままに。私は無意識に最適解を導いていただけだった。飛び出してきた時咄嗟に掴んでいた鞄に手を突っ込んで、カバーに包まれた折り畳み式のソレを取り出していただけだった。
神祇院の鈴木さんに貰った、現代技術の粋だとかなんだとか。とにかく、凄いモノ。
カバーを乱雑に外し一振りすれば、ジャキンと音を立て薙刀と化す。
「一首、二首、三首、四首、五首、六首、七首、八首、九首、合わせ九なりし守護の龍の力を賜らん!」
私専用に作られたこれは、とっても手に馴染む。
滅多に使わない物騒な切り札が、まさかこんなところで役に立つなんて。
おおおおおお……!
高速で滑空するように襲いかかってきた天使と打ち合う。
輝く薙刀の切れ味は鈴木さんの保証の通り。
「ああああああああ!」
出鱈目に振るうたびに天使の首が飛び、腕が飛ぶ。
「来ないで!」
自分のモノとも思えない位に鋭い声は恐怖を隠す為だけの虚勢、唯の威嚇に過ぎなかったけれど。
(しっかりして、しっかりしてよ、桂里奈!
……おばさんが居る。街の皆が居る。お兄さんみたいにさせない。させちゃ、いけない――)
私は自分に言い聞かせ泣き叫びそうになる弱さを一喝する。崩れ落ちそうになる膝の震えを全身全霊で抑え込む。
「聖なるかな」
「聖なるかな」
「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」
私の無様な抵抗を手強いと見たのか――見てくれたのか天使達が近くの空を埋めていた。
(……逃げないと、でも。いや、それは駄目だ……!)
私の背後には腰を抜かしたおばさんが居た。
それに天使達の注目を集めた私がこの場所を動いたら――彼等はより広範囲に被害を撒き散らす。
街の様子を見る限り、きっとこれは逃げて何とかなるような話では無いのだと理解した。
「……ない」
乾いた声は無意識の内に漏れていた。
「負けない」
倒せたのだ。私は。
ならば私は、九頭龍大社の巫女である私は大好きなこの街を、大好きな人達を守らなければならない。
そうしなければ全てが失われてしまうような、そんな気がしていたから!
おおおおおおお……!
飛翔する天使達が撃ち放った光球を、展開した護符が誘爆させた。
「飛べるんだもんね。そうして私をやっつける心算なんだね」
どうしようもない混乱の中、余計に気持ちは冷えていた。
……降りてこない。あの引き裂いたような笑みが、私をどうしようもなく見下しているのが分かる。
そうだよね。そんな距離にいたら、薙刀は届かない。
でも飛べば大丈夫だと思ってるなら、私は凄くナメられている。
(お願いだよ、鈴木さん)
早く来て、そんな泣き言は今は忘れて――鞄から折り紙を取り出して神気を注ぐ。
「鶺鴒や鶺鴒、芦ノ湖を渡りて舞い上がれ!」
投げた紙人形が鳥となり、天使へとぶつかり爆散する。
「いいぞー!」
「やっちまえ! 桂里奈!」
「カッコいい! 今の何!? 魔法!? オンミョウジ!?」
嘘、まだ逃げてない!?
ほんの数体倒した程度でどうにかなる話じゃない。
空を見れば分かるじゃない!
目を閉じていたって――悲鳴が聞こえる。何かが壊れる音は止んでない!
此処だけじゃない。たぶん、あっちこっちで……大社だって安全とは限らないのに!
神祇院の人とも、さっきから電話がつながらない。
「……社まで逃げ切るしかない」
これが箱根だけの話かは分からないけど、ロクちゃんのところまで辿り着ければ。
……そこまで考えて、気付く。皆は?
逃げる様子はない。スマホを構えて何かを撮っている、何処か他人事で少しおかしい。
でも、見捨てられない。連れて行かなきゃ。
「皆さん、ついてきてください! 今から安全なところに向かいます!」
ざわつく集団がどれ位私の言葉を受け入れてくれているかは分からない。
でも、全てが一刻を争う事は確実だった。
神祇院の人達でも無理かも知れない。でもロクちゃんなら、きっと――
「……あ」
――そこまで考えて動き出した私は彼方の空に更に大きな天使の群れを見てしまった。
彼等は無慈悲に降臨する。何事でもないように人を殺し、屋根や車を踏み砕いて、奇妙に嗤うだけ。
「聖なるかな」
「聖なるかな」
「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな……」
さっきより、ずっと多い。
(ダメ。こんなの、倒し切れない――)
せめて鈴木さんが居てくれたら。私が一人で無かったなら。
どうしよう? どうしたらいい? どうすればいい!?
数が多すぎる、護符だって無限じゃない! 全部倒すのはたぶん無理!
「助けてえ!」
「うわああああああ!」
「……っあ……!」
頭を掻きむしりそうになった私の隙を突くように。
守るべきだった人が、真っ二つになって赤い色を撒き散らす。
一人、二人、三人……喚きながら攻撃する私に構わずに天使は次々と皆の命を手にかけている。
ロクちゃん。私は、どうしたら。
ロクちゃん、私だけじゃ。だってこういう時は、ずっと二人だったのに。
うちの神社の縁起みたいに。昔の偉いお坊さんみたいに、私が戦えたなら……こんな事にはならなかったのに!
でも、私は今一人だから。ロクちゃんだって居ないから!
「……っ! 清め給え洗い流し給え、害気攘払、悪鬼追逐、九頭龍大神に願い奉る!」
戦うしかない。守るしかない。
私の頭の中はぐちゃぐちゃで、でも辛うじて手は動いていた。
戦う意志だけは挫けずに、私に最適解を教えてくれていた。
それなのに。
「ねえ、助けてよ!」
突然肩を引っ張られて、構えがブレた。
「……え?」
「タケシが車に挟まれちゃって、出られないの! アンタ強いんでしょ!? どうにかしてよ!」
そんな事言われても。でも――助けられるなら。
「あの、そのタケシさんって」
「聖なるかな」
「何処に?」その答えは他ならぬ天使が教えてくれた。
何かが踏みつぶされる音。
「タケシ! タケシイイイイ! いやあああああ! どうしてえええええええ!!!!」
私を引っ張っていた女の人の金切り声みたいな悲鳴が、鼓膜に痛い。
「落ち着いて! そんなに叫んだら――」
「――うるさい、役立たず!」
振るわれる手。響く音。目がチカチカして。叩かれたと気付いたのは、その人が走り去っていった後だった。
「聖なるかな」
おっきな槍に貫かれて、駆けて行った女の人が千切れていた。
「助けて! ねえ、誰か!」
「警察は何してんだよ!」
「嫌だあああ!」
混乱はこの期に及べば最悪の事態を示していた。
「皆、落ち着いて! 社に行ければきっと――」
幾ら叫んでも誰も何も聞いてくれない。
何とかしなきゃ。私が? 叩かれた頬が痛くて。泣きそうで。
でも。うん。私はそれでも、戦う力があるから。
戦わなくちゃいけない。皆を守らないといけないんだ。
「……そうだよね、ロクちゃん。だって私は、ロクちゃんの巫女だから」
十七歳。この年になるまで、ロクちゃんと一緒に居た。
偉いロクちゃんに認めて貰えたんだ。ちょっとしんどい戦いだけど、私が頑張らなきゃだから。
「清め給え洗い流し給え、害気攘払、悪鬼追逐、九頭龍大神に願い奉る!」
放つ青い波動で天使を幾度も薙ぎ払い、私は助けを求める人の元へ走っていく。
「大丈夫、私に任せて! 絶対助けてあげるから!」
襲ってくる天使の群れ。皆を守るように、私は立ち塞がって。
戦う。
戦う。
(……鈴木さん、まだなの!?)
斬る。
撃つ。
(これ以上は、無理だよ……)
撃たれる。
呼吸が乱れる。満足に息が吸えない。
痛い。痛いよ。身体も、心も痛い。
「……っ、んく……っ……!」
天使の瞬かせた弓より死を呼ぶ矢が幾条も放たれた。
護符で、弾いて。でも守り切れずに、へたり込んでいた人の何人かがトマトみたいに弾けていく。
「こ、このっ……!」
「全然だめじゃねえか! クソが!」
「役立たず!」
「逃げろおお! もうおしまいだ!」
「お前、お前のせいだ! お前が変に戦うから、あんなに敵が!」
え? でも、私は。
私は、皆を守りたくて。だから、戦って。
私のせい? どうして?
「責任とれよ! あいつらぶっ殺せよ!」
「そうよ、戦えるんでしょ!?」
「行けよ! 戦え! 俺達を守れよ!」
背中を強く押されて――その瞬間、私はバランスを失っていた。
「あ――」
頼りの薙刀が、手を離れて。転がって。
なんで? 皆どうして私に怒るの? ……責任って、何?
「……ああ……」
天使が、私の薙刀を踏みつける。
振り上げられた剣が、私を。
護符。術。ダメ、間に合わない。
家屋を燃やす炎が、剣をギラつかせて。
死ぬんだ、と。そう気付く。
「……ロクちゃん」
たすけて。もう嫌だよ。たすけて、ロクちゃん……