
毒蛇忌譚『魔性顕現』
傷付いたロクはボロボロの社にて最大の虚無に打ちひしがれていた。
「ああ……」
何だったのだろう、と考える。
近くて遠いあの日の出会いは。
一人の少女に絆されて過ごした現代での時間は。
新たに繋がった縁に柄にも無く喜んでしまったあの瞬間は。
羽付き共がロクの神気にあてられた事が全て最悪の原因か。
……街全体に数倍する、数百、数千の天使に集られた彼は桂里奈の父を救えなかった。
大社に住み込む、好いた人々の誰をも救えなかった。
「……ああ……」
だが、それさえも些事である。
――たすけて、ロクちゃん……
ロクにとっての最悪は、研ぎ澄まされた神の感覚の捉えたそのか細い声だった。
――全然だめじゃねえか! クソが!
――役立たず!
――お前、お前のせいだ! お前が変に戦うから、あんなに敵が!
(……桂里奈はどんなに痛かった事だろう?)
――責任とれよ! あいつらぶっ殺せよ!
――そうよ、戦えるんでしょ!?
――行けよ! 戦え! 俺達を守れよ!
(あの子は……どんなに辛かった事だろう?)
我が物顔で空を埋める羽付き共を悉く鏖にしたとしてロクは最早晴れる心さえ持っていなかった。
ボコボコと泡立つのは息を吹き返した毒の沼。
其は第一と糞坊主と約定して以来――取り分け、桂里奈と出会って以来は封じられていた魔性である。
いっそ視えなければ良かったのに。
いっそ聞こえなければ良かったのに。
そうしたら彼はまだ――九頭龍大社のロクちゃんでいられたかも知れなかったのに!
バタバタと人の気配が複数――近付いてきた。
境内への階段を駆け上がってきたのは何れも見知った街の人々だ。
皆着の身着のまま、生気を失った表情で大社に駆け込んできた様相であった。
「こ、ここまで来れば……」
「大丈夫なんだよな? なあ?」
十数人の末尾に続いたのは他ならぬあの鈴木であった。
普段、一分の隙も無い髪形が乱れている。スーツは血と泥に塗れ、眼鏡は既に割れていた。
誰が見ても分かる。彼は既に重傷を負っていた。恐らくはこの場に逃れてきた人々を守って。
「……ロク様、夜分に恐れ入ります。
しかし、御身知っての通り――危急の事態が起きました」
「危急の事態だと?」
全てを見知ったロクは冷淡な調子で鈴木に問うた。
周りの人間は蛇が厳かにも喋った事に驚きのざわめきを上げていたが二者は当然構わない。
「羽の付いた怪物――天使が箱根中に現れました。いえ、これは箱根だけの出来事ではありません。
神祇院の現状の調査でも、被害は最低でも日本全国。或いは世界規模かも知れません。
これは人類の危機に相違ないのです」
「桂里奈」
「……っ……」
ロクの言葉に鈴木の顔が引き攣った。
「桂里奈はどうした、鈴木。神祇院の仕事だったのであろう?」
「それは、桂里奈は……」
「そんな話より、俺達を――」
邪魔をした中年の男が金縛りにあったように不自然に動きを止めた。
「どうした鈴木。我が問いを無視する心算か?」
「……恐れ、入ります」
ロクの再度の問いかけに前に出た鈴木は意を決したように桂里奈が何時も付けていた髪飾りをロクの前に差し出した。
……それは見るからに何時もの様子とは違っていた。べっとりと赤黒く。既に乾いた血が痛ましい。
「……桂里奈を救う事は出来ませんでした。あの子は、天使達に……」
端正な顔をどうしようもない位に歪めた鈴木の言葉にロクは酷く納得した。
「やはり、お前を嫌ったのは我が身勝手であったな」
「……?」
「お前は最初から最後まで善良であった。神祇院の役人に相応しく。
お前のような男を抱える組織ならば、神祇院はきっと正しき場所であったに違いない」
「ロク様、それはどういう……?」
「お前は桂里奈を好いていたな。そして我をもだ。
……無論、おかしな意味ではない。
人々を愛し、街を愛し、大社を愛した。一片の邪も下心も無くだ。だからこそ――」
ロクは我が身を内から食い破る怒りと憎悪をもう抑え切れない。
――だからこそ、お前は大いに怒りながらも我に全てを伝える事をしない。
魔性顕現。
小さな白蛇の身の裡より毒龍が姿を為す。
同時に上がった多くの人間の悲鳴は数秒の内に夜の静寂に呑み込まれた。
次々と爆ぜた人の頭はもう無駄口を叩けない。
――逃し先を誤ったな、鈴木よ。そして問う。我は狭量か?
「いえ。可能性は察しておりました。神を謀る不敬の意味も」
鈴木は諦めたように首を振った。
桂里奈の亡骸は原型を留めていない位に酷い有様だった。
あの地獄から髪飾りを回収した鈴木は聞いていたのだ。浅ましくも桂里奈を贄に僅かな時間を生き永らえ、「あの役立たずの代わりに助けてくれるんでしょう!?」と無様に縋った人間の業を。
聡明な彼は理解した筈なのだ。そこで起きた身勝手な混乱が或いは桂里奈を殺した事を。
ロクが見た光景を。鈴木は察していたのである。
それなのに、彼は人々を救った。僅かな可能性に賭け、我が身を犠牲にしてこの社まで彼等を導いたのだ。
……少なくとも鈴木は桂里奈の形見をロクに届ける誠意を見せた。
彼はロクと同じく激しく憤りながらも、桂里奈を殺した人間を見捨てる事もしなかったのだ。
――我は、禍の蛇神であるか?
「いいえ。貴方様は優しく、穏やかな善神でありました」
賞賛もなく、侮蔑と罵倒と恐怖の花に彩られて死んだ。
桂里奈は、桂里奈が……
何故、何故そんな目にあわなければならなかったのか?
そんな理由が、あるはずがない。そんな理由が、あっていいはずがない。
自問自答を繰り返すロクを鈴木は一切否定しようとはしなかった。
――桂里奈。おお、桂里奈。我が桂里奈。我が光。
お前はもっと、幸せな生き方が出来たはずだろう?
我はそう願っていた。そうあるべきと信じていたのに……
大社を覆う程に膨張した毒龍の慟哭がさめざめと空気を揺らしていた。
人を、守ってきた。安寧の中で、緩やかに消えていこうとした。
桂里奈と出会い、この少女と共に歩んでいこうとした。
その理由は……理由は。
嗚呼、単純だ。好いていたからだ。この関係が永遠であることを無意識のうちに願っていた。
叶わなかったのは誰のせいか?
考えるまでもない。人間が桂里奈を殺したのだ。人間が、ロクの願いを踏みにじったのだ。
「聖なるかな」
「聖なるかな」
「聖なるかな」
再び集まりつつあった天使を放たれた光の波動が殲滅する。
――毒龍たるは是迄。その言に相違はありますまいな
――この約定。破られることはないと信じております。<
なに、あれほど熱く語り合ったのです。
白蛇殿は、拙僧の言葉を永く留めてくださるでしょう!
――人の持つ光、闇。悟りとは全てを赦す道です。
白蛇殿、我が友人よ。貴殿もそうあってほしいと拙僧は思いますなあ!
全て遠き刹那にて。
最早その光は毒沼の底には余りに眩い。
――収まらぬ。既に我が身は第六にて。許せよ、鈴木。
「お気になさるな。元から助からない傷です。
ああ、でももう一言だけお許しいただけるなら――」
鈴木は力なく笑っていた。
「――先程のは少しだけスッキリしましたよ。
いやはや、神祇院にあるまじき発言だ。
上司にはくれぐれも内緒でお願いしますね?」
最期の言葉は初めて友人めいていた。
「左様なら」
せめても苦しませず、と慈悲のままに彼の肉体が闇に溶ける。
それは呪式の完成に相違ない。
現代の最後の楔を失ったロクはもうこの時代に何の未練も希望も無い。
――呪われよ、人類。呪われよ、天使。
鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。鏖殺だ。
――溶解せよ、朽ちよ、果てよ! 無様に絶えろ!
生きとし生けるもの全て、貴様等の言う怪物へと成り果てるがいい!!!
此の世全て、敵である。我を蛇蝎の如く嫌うがいい。
毒龍は彼が最後に認めた男の死と共に完成した。
遠い糞坊主の声ももう、第六に届く事は――永遠に無い!