
九頭龍呪怨縁起
ゆらゆら、ゆらゆら。
芦ノ湖の湖面が揺れては波紋を描く。
我が本体よ、我が真なる神威を体現せし、されどすでに無へと旅立った他の首たちよ。
貴様等は今の我を見てどう思うだろうか?
……愚問だ。我は奴等であり、奴等は我であった。なれば必定、同じ判断をしたであろう。
あの糞坊主めに感化された我等なればこそ、桂里奈にも同じ光を見るのは疑いようもない。
然るに、今より為すことも九頭龍大神としての総意である。
ゆらゆら、ゆらゆら。
生かさねばならぬ理由も無く、これは永劫の今生における最後の「意味」となる。
なればこそ、生き汚き人間というものに己が罪を直視させるときが来たのだろう。
――ロクちゃん
ロクちゃんは、人間が嫌い?
私は好きだなあ。だって、ロクちゃんに会えたんだもの
今でもその声が聞こえる気がする。振り向けば、お前がいる気がするのだ。そんなことはないと分かり切っているというのに!
桂里奈。我が桂里奈、我が巫女。お前のことを忘れたことはない。
お前のくれた光を覚えている。あの楽しき日々を覚えている。
刹那にも無限にも感じた安らぎを、忘れようはずもない。
覚えている。桂里奈の今際の際の声を、覚えている。
覚えている。桂里奈を殺した人間の業を、覚えている。
覚えている。我が桂里奈の最後の瞬間、その時を。
たすけて、と。桂里奈はそう願った。
嗚呼、認めよう。我は桂里奈を救えなかった。間に合わなかった。守れなかった。
それは間違いなくこの身が負うべき罪だ。
故に、あの天使とかいう者共も我の敵であることに変わりはない。
しかし、だ。それ以上に我は人間が許せぬ。
桂里奈を殺したのは人間だ。人間の裏切りこそが桂里奈を殺したのだ。
普段、あれほどまでに善と平和を叫び、さも兵戈無用を現世に顕現させたかのように振舞っていたというのに。
ああ、糞坊主め。貴様が説いた八正道とやらを実践する人間はついぞ現れなかったな。
見よ、八つどころか正語ですら実践できぬ者の多さよ。少なくともこの箱根に居た者共は涅槃になど到れなかったに相違あるまい。
いや、到ることなど我が許さぬ。人間にそのようなものに到る権利などない。我はもう充分に理解した。
人間は滅びねばならぬ。その一切合切、許しはしない。如何に善を気取ろうと、貴様等の本質は悪である。
その悪故に、この地上に蔓延ることを断じて許さぬ。
今の我には理解出来る。あの糞坊主や桂里奈のような善は一握りであることを。
なあ、糞坊主よ。そうであるからこそ、この世に教えとやらが必要だったのではないか?
人間の本性が悪であるからこそ、どうしようもない屑であるからこそ。その中に僅かに混じる光を救済する為だったのではないのか?
だが、その光は潰えた。他ならぬ人間の手によって。その悪を、闇を我は確かに見た。
――ロクちゃんが昔会ったっていう上人さま? 凄い人だよねー
――糞坊主だ。桂里奈が気に留めるまでもない
――そんなことないよー。だってさ、毒龍だったロクちゃんがやり直せるって信じたんでしょ?
――まあ……そうとも言えるな
――上人さまじゃなかったら「破ァー!」だったかもしれないよ?
そう考えるとさ、凄いよね。尊敬しちゃう。
やっぱりさ、「赦し」っていうのは必要なんだと思うな
――桂里奈。お前が尊敬すべきは目の前の我なのではないか?
赦し、赦しか。されど、桂里奈。何にでも限度はある。
あの糞坊主の語った仏道では仏は何度でも赦しを与えるそうだ。それが慈悲であると。
されど、我にはそうは思えんのだ。
桂里奈、お前は人間のせいで死んだであろう?
桂里奈、我が光。
お前を殺した人間共を、我は許せぬ。お前が死んだのに、何故他の人間に生を許さねばならぬのか?
そんなことをするくらいであれば我は毒龍であることに、禍の蛇神であることに躊躇いなど。
――我は、禍の蛇神であるか?
――いいえ。貴方様は優しく、穏やかな善神でありました
善神か。よもや此処に至っては貴様も我のことを善神などとは呼ぶまい。
鈴木よ。貴様も善であったとは言わぬ。だが悪であったなどは言わぬ。
せめて多くの人間が貴様のようであればこうはならなかったのかもしれん。
だが我はもはや善神であることなど出来ぬ。
これが一切皆苦であるというのなら。この世に三毒が満ち溢れているといいうのなら。
嗚呼、糞坊主め。貴様の言う真理がまた証明されてしまったようだ。
故に。この世に未だ人間が生き汚く蔓延るのであれば、我がやらねばならぬ。
生きて良い理由など何一つ無い事を思い知らせてやらねばならぬ。
自分を善だと嘯くのであれば、己が罪を突き付けてやろう。
自分がどれ程薄汚い塵であるのかを疾く認識し死ぬがいい。
嗚呼、そうだとも。これは我が人間共へ下す裁きである。
「人間なる者がこの世に蔓延って良い道理は無し。故に、九頭龍大神第六の首たる我が……『ロク』が告げよう」
芦ノ湖より、漆黒の呪いが噴き出していく。
我より分離した呪いそのものである『黒い蛇』などと人類が称したもの。
芦ノ湖に残りし神通力を取り込んだ呪いが、天蓋となりて箱根を包んでいく。
これぞ我が人類へと告げる裁き。箱根を越え日本を、世界を包む領域。すなわち、九頭龍呪怨縁起である。
「己が罪を直視せよ、人間。貴様等に下すのは獣以下の身に相応しい死だ」

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