いつか神話に


 私は生きた。
 充分です。

 富士山南西の空にて、強い風に晒されていた。
 破壊され尽くした廃墟街がはるか遠くに見え、その中に天使達の姿はない。
 ――命令です。
 通信装置を使って作戦に従事した全指揮官へ向けて発した言葉通り、彼らは撤退を選んでくれたらしい。
 神に等しき至高なる御方のため。10人の脱走者を連れ戻し然るべき報いを受けさせる。
 その作戦のために動員された天使の数は計り知れない。
 そのうち何万という規模の天使が死んだ
 それが己のであることは、およそ間違いないだろう。
 何万の天使たち。
 彼らの死は、何に残っただろうか。
 誰かの記憶に。何かの歴史に。あるいは神話に、なれただろうか。
 ぐったりと力なく腕をたらすと、それを掴んだ天使の少年が強く抱きしめる。
 そうして初めて、自分が彼に抱えられて空を飛んでいる事実に思い至った。
 何万の兵士について考えておいて、自身の現状が後回しとは不摂生にも程がある。
 少年は何も言わない。唇をかみしめて震えているようだ。
 自分は何かしら言葉をかけられるだろうかと考えて。
 ベルセノスは黙ることにした。

 決して短くない人生これまでが脳裏をよぎるが、鮮明なのはごく最近のことばかりだ。
 負けそうになるとチェス盤をひっくり返して酒盛りを始めようとする乱暴な同僚殿。人間を侮り破れ覚悟を決めた同僚殿。斯くあれかしと作られた同僚。恵まれることを知らなかった同僚殿。他にも沢山の同僚達の思い出の中に、部下達との日々もまた流れていく。
 たった一度だけ名前を教えてくれた最下級の兵士。あげた名前を気に入ってくれた部下。仲良しの兄弟。愛らしい嘘吐き。あまりにも沢山の思い出は、数えることも難しい。
 全てを思い出すだけの時間がどうか残されていますようにと願いながら、けれどそれがかなわないことを知っていた。
 自分の名を、必死に呼ぶ声がする。
 そのことだけは解るのに、耳も口も動いてはくれない。
 みたまえ、この通りだ。
 彼ら彼女らはどうやら奇跡を起こし、かなうはずのない、払いのけられるはずのない脅威をはね除け、あまつさえ殺してみせた。
 称賛すべき勇敢さ。団結力と、信念と、そして強い意志。
 思えば、少々恥ずかしいこともした。
 彼らにあてられ、若い頃のように獰猛に牙を剥き笑いながら殴り合う遊ぶようなこともしてしまった。
 己の役目が失敗するとわかった頃から、どこか楽しくすらあった。まったく不敬なことに。

 私はもういい。
 充分です。
 あとはどうか。
 尊敬すべき上官殿、信頼すべき同僚殿、愛すべき同胞たち。そして至高なる御方。
(アレクシス様。ターリル殿、エルシィ殿、フェルエナ殿、フィフス殿、ジルデ殿、ヴァルトルーデ殿、ウィラ殿、イザベル殿、ブラムザップ殿。それに――ガイアー君、アードラー君、クラーニヒ君、シュトラウス君、エーム君、アルバトロス君、暁烏君、ファスティ、ユーグレナ、クロエロット、ビェーリィ、ヴァルクレオン、ストラトマール、ドラクサー、バッカス、サルカス、アルマレオン、コロニア、タクティコール――)
 名前を唱える時間すら、どうやら足りなくなったらしい。
 だからせめてと。
 願いを唱える。

 彼らの生涯がどうか、愛されるものになりますように。
 いつか神話になりますように。

 ――能天使級作戦指揮官『ベルセノス』は死亡した状態で所持品一式と共にパノプティコンへと持ち帰られた。
 ――包囲作戦に従事していた天使軍は撤退にあたっている。