
日常と激動のあわい
マシロ市から横須賀地区に至るまで。日常を楽しむ者達の声が響いている。
刻陽学園学園祭――通称刻陽祭が行なわれて居るのである。
小さなノックの音を響かせて、市長室に顔を出した少女は頭には可愛らしい動物の着け耳を、首からは菓子の入ったバスケットを下げて居た。
「忙しい所、ごめんなさい。差し入れをしたかったのだけれど」
ひょこりと顔を覗かせた雪代 刹那(r2n000001)を見てから涼介・マクスウェル(r2n000002)は首を振った。
「いいえ、楽しいんでいらっしゃるならば結構。差し入れもどうも有り難う。
さて、先に伝えては居ますが、あともう暫くでマシロ市は厳戒態勢に入ります。横須賀とは比では無い戦闘が行われることとなります。貴女は――」
「分かって居るわ。マシロ市から出ない。これでも刻陽学園で友人が出来たの。
……皆が危険な目に遭うというならば出来る限り避けたいもの。横須賀の事もあった。
私が彼らにとって何か大切な存在である可能性もあるのでしょう」
記憶喪失の少女は、自らに対して何ら情報を持ってやいない。だが、聡い。
これまで丁重に、丁重に保護をされた籠の鳥。囚われの姫君などと言えば聞こえは良いだろうが、その立場を甘んじるほどに彼女は愚鈍ではない。
「私は貴方の言葉に従うわ。安心して、その言葉に嘘は無いの。
……貴方は、マシロ市の皆を――私の友人達を大切にしていると信じているから」
『――だ、そうですが?』
専用通信回路を通して涼介の苦い笑いが届いたのは刹那が学園祭に参加してくるとスタンプラリーシートを手に市長室を出て行った頃だろう。
「年頃の娘というのは難しいものだね? 子育ては初心者ということかな、涼介君。
しかし、学生らしい毎日を。せめて子供らしく幸せを享受するべき――というのは如何なる時でも変わらないね」
「それを悪事と指差すならば、この場で暴れ回っても構わないがね。
君とてその様に思っているだろうとも、王条君。ああ、それに、娘御が満喫してくれているならば何よりだ、市長」
かつりと地を叩いた杖を手にする棟耶 匠(r2n000068)の意地の悪い問い掛けに王条 かぐら(r2n000003)は小さく笑みを零して。
『最初から、学園祭の開催を私自身は否定しておりませんでしたよ。
それでも念には念を入れて私の元へと通っただけのことはありましたね。棟耶校長』
「ああ。人間らしい生活を必要とするのは誰もが同じ事だろう。
穏やかで当たり前の日常なんかは程遠い。
規格外の尽力の甲斐があって大破局以前の人間らしい生活には随分と近づけているだろうとも。
技術レベルや文化的水準というならば、目に見える範囲は、と言うべきであり、我らの心持ちはあの時とは大きく違う」
「まさに、今から死地に向かう準備を整えているというこの現状」
かぐらはテーブルに置かれていた各部署からの連絡書類や嘆願書を見下ろした。
「嫌にもなるさ」
これより死にに行く許可をくれ、とでも言いたげな嘆願の数々。
氷取沢橋頭堡に戻り御殿場に設置した簡易拠点に物資輸送や人員配置を行う中でかぐらの元に届けられたものである。
「嫌になろうとも、仕方が無い事なのだろうけれどね。
せめて、思い出だけでも――いや、大切なものを再確認する時間だけでも作ってやれるというなら……なんて、弱音を吐きすぎたかな」
「いやいや、再確認して力にすると言うことならば構わんだろう。
原動力とは必要だとも。死地を幾度乗り越えようとも、それだけは変わらない。
現状を見たまえよ。どこが平常と言えるか。富士の腸は煮えくり返り、大地は鳴動している。天は今にも裁きの槍を落とすだろう。……私は、その時に何を抱いているかが命を繋ぐと思っている。重い荷物でも無いよりはマシだ。思う存分に背負うべきだ」
「ふふ、そう言う棟耶校長の重たい荷物は蓮華宮と苑子嬢かな?」
「そこに、可愛い生徒達も追加して貰えるかね。
君もだが、私も出征の準備をしている。
……北緯35度22分の来光道の解放は神祇院の仕事だ。私も腹を括っているつもりなのでね」
匠の顔をじっと見詰めてからかぐらは「意地悪を言ったかな」とそう付け加えた。
死地に向かうという言葉は、死にに行くという表現は間違いでは無い。アーカディアVの戦いは差し迫っている。
富士の地下部分にO.R.A.C.L.Eが観測した神秘活動に対し、龍脈や神的影響を鑑みて御殿場前線簡易拠点には既に古月 せをり(r2n000108)達が待機している。
何かがあれば直ぐに此方に連絡が届く手筈だ。未だ燻る程度で済んでいるのは幸運であっただけに過ぎない。
「しかし、準備をする時間をくれたとは……。
かの熾天の座も存外に優しかったということかな?
それとも、多少の時間程度彼らにとっては瞬きの内。我々人間の尺度で語ってはならないだけのことかもしれないけれど。
命乞いの準備の時間をくれたんじゃないか、なんて戯けてしまいたくもなるけれど。
ねえ、涼介君。後ほど伺うよ。アフターファイブを開けていてはくれるかな?
生きて帰る準備の為だ。今日はとびきりの残業をして貰うことになるだろうけれど」
『勿論。かぐらさんのお誘いでしたならば。
……ああ、明朝までスケジュールの調整でもしましょうか?』
揶揄い半分の男の声にかぐらはふっと笑ってから「君と見る学園祭の花火は楽しそうだな」と、そう返した。
『――それでは、お待ちしております。また、夜に』