獅子の牙
霊峰富士の鳴動が、神秘的深度を強めた。
それは『滅亡の書・ソドムゴモラ』がより深く世界に根差さんとしている証。
深奥からの大噴火が迫っているのだ――
今すぐ、という訳ではないだろう。だが時間の猶予は左程ないと見える。故にアレクシスの下へ一刻も早く向かわねばならぬ……が、更にもう一つ大きな問題が生じていた。
「なん……だ、あの数は……」
「まさか……これだけ倒しても、まだあれだけの天使が……!?」
これまでにアレクシス派の天使は、各地の戦線で多数破っていたのだが。
その上で、レイヴンズの数を凌駕する増援が、再び空に確認されたのだ。
当然ながらここまでの戦いでレイヴンズは大なり小なり疲弊している。深き傷を負っている者、息が切れる程に力を尽くしている者も少なくは非ず……疲労困憊だ。しかしアレクシスの軍勢は、そんな面々を潰さんと無慈悲にも迫ってきている。
「おや、どうかしましたか。そんなに浮かない顔色をして」
せせら笑う声。それは戦場を俯瞰する第五熾天使の言の葉であった。
薄ら惚けたアレクシスの軽侮はまさに愉悦に満ちていた。
――これだ。これこそが天使の、真に恐ろしい所なのだ。
個としての強大だけならば対処の仕様はあったのだ。
黄昏前の人類には大量破壊兵器があり、その軍事力、破壊力は智天使さえも仕留めた。
強欲な調整によって力を失う前のこの世界には強力な天使に多少なりとも抗う神秘もあったのだから。
しかし、しかし――
欧州、ベルリン。陥落前のかの街を強固に守護していたBaroque――親衛隊の命脈を絶った苦難はまさに今、K.Y.R.I.E.が直面したものに等しい。一個大隊として極めて強力な異能力者を抱え、更には火器兵器を潤沢に有していた彼等は欧州防衛の要であった。そんな彼等が祖国の為の相討ちを余儀なくされたのは圧倒的な物量差。
即ち、かつての人類軍全てを苦しめた地獄絵図そのものだ。
精鋭のレイヴンズであれば天使級程度、ある程度増えようとも問題なく倒し切れるだろう。だがその数の差が百や二百どころでないのなら? それらが延々と波打つように迫ってくるのなら?
――あと、何回おかわりが来るのかも分からないのなら?
疲弊、或いは絶望という名の悪魔からは――逃れられないだろう。
「貴方達の無知蒙昧はまさにその表情が物語っている。
まさか……死力を尽くせば私に届くとでも?
全霊の果て、私と雌雄を決する戦いが出来るとでも思いましたか?
なぜ私が貴方達程度の塵芥と干戈を交える必要があるのでしょうか。
そんな考えが生まれる事自体がおこがましい。
塵芥には価値はない。私の眼前に至る事すら大いなる不敬と知りなさい」
アレクシスは――レイヴンズと戦ってやる気など初めから一切無い。
無数の天使級で押し潰す。ソドムゴモラが真の意味で顕現すれば、その時点で勝ちは決まったようなものなのだ。たかが人間程度、相手をしてやる道理などどこにもない。そもそも大軍に区々たる用兵など必要なく……ただ絶対的に、圧倒的に、全てを平らに均すように進軍すれば宜しい。強者とはそう言うものだと信ずる。
お前達は、このまま死ね。第五熾天の膝元にすら至れぬ儘に。
――アレクシスの撃破はおろか、接触すら極めて困難と言える数の差はこの戦場の結論だ。
その大軍勢を前に……しかし、その時。
「――すまない。待たせたな、諸君」
一つの声が戦場に響き渡った。
その声の主はキャンプ・パールコーストが長――レオパル・ド・ティーゲルであった。
彼は告げる。空を覆う程の大軍を前に、しかし臆する事も無く。
「今こそ道は切り拓かれる!
総員! 我々の力を! 我々の培ってきた29年を示せ!!」
「ただの人間?」とアレクシスは不快気に眉を顰めた。
しかし、当然ながら声を張った主の方は自称神の気持ちの向き等心の底からどうでも良い。
「今こそ我々は再び、人類の命運の瀬戸際にいるのだと自負せよ!!
この地は! 我らを信じてくれる人々の命は! 我々が護り抜くのだッ!!
これが人類の分水嶺。今日この時ばかりは脇役、裏方で済むと思ってくれるなよ――」
レオパルは口角を持ち上げ、万感と共にその号令を吐き出した。
「主役は我々だ。全軍――砲撃開始ッ!!」
鼓膜を裂き、地面を揺らし、空を震わせる――キャンプ・パールコーストの総力はレイヴンズの後方側から放たれた大砲撃の軌跡であった。
「人類を舐めるなよ」
重火器が奏でる。聖なるかな、天使に殲滅あれかしと――
着弾と同時、最前線に多数の爆炎と衝撃が発生した。
「第一、第二、第三小隊、砲撃継続ッ!
後の事は考えるな。銃身が爛れても構わん、兎に角撃て!
第四、第五、第六小隊、PSRL-1用意ッ!
第七、第八、第九小隊、弾幕は絶やすな! はぐれた奴は重機関で潰してやれ!」
第二砲撃は間髪無く、更には歩兵は前線近くまで出張ってきた。
人間の兵士がその位置で生存出来る可能性がどれだけあろうか?
しかし、関係ない。火器を携行した兵士達はまさに決死で、文字通りの大火力を天使の軍勢に叩き込んでいる。
絶え間なく連続される火力展開は燎原の火の如く。ソレは本来アレクシスの下へ到達すべき増援の波を確かに押し留めていた。天使は砲撃の波間を縫って接近せんと試みるが……しかしパールコースト側の掃射は一切を赦さず撃砕している。
ただ――それにしても彼らの練度たるや凄まじい。
それは今日という日の為に旧時代が託した武力であり、殆ど出番が無いと知りながらも名も無き軍人の一人一人が整備を続け、訓練を続けた無為な努力の産物であり、雪の少女を引き換えに得た横須賀で接収した重火器の再利用の結果であり、つまり。なけなしの迫撃砲、並びに戦車部隊による大蔵ざらえの一斉砲火であった!
「29年。あぁ29年だ――舐めるなよ、羽根付き共」
パールコーストに所属する軍人の一人が、言を零した。
「俺達が今まで、どんな想いで過ごしてきたか」
「お前らに怯えて、縮こまって、背を丸めて生きてきたとでも思うか――?」
「若い奴、時には子供が前線で戦って……
それでも、何も出来なかった俺達が納得してるとでも思うのか?」
いや、一人ではない。戦場に来ている誰も彼もが同じ想いを抱いている。
――昨年の、大量のフレッシュ流入の折から情勢は大きく変動したが、人類に仮初の勝利をもたらしたのは唯の軍人だ。そして、死に損なった彼等はもう一度その牙を突き立てる日をむしろ夢見て生きてきた。
あの日から……人は天使の恐怖にひれ伏し生きてきた訳ではない!
「あの台詞は少佐だけのもんじゃねえよ。
何度だって言ってやる――人類を舐めるなよ、羽根付き共!」
至高の天使の無慈悲な策に無力な人間の抗いが楔を打っている。
能力を持つレイヴンズを、能力を持たない人間が確かにこの瞬間支えている――
「……面白い」
呟いたアレクシスはこの瞬間だけ素直な賞賛を述べていた。
「これがかつてあの娘の天使軍に抗った力の一端ですか。
成程成程。実に面白い催しだ。生物は、死間際である程に輝きを増すと言いますが……これこそが貴方達の断末魔でしょうかねぇ」
……とは言え、その声色はすぐに彼特有の冷淡極まるものに変わっていた。
超多数の爆撃にも似た圧倒的射撃量。地すら揺らす勢い……だ、が。
それだけの火力を実現させてもアレクシス自体は揺らがない。
砲撃の総てを天使級に請け負わせているのもあるが……しかし力を主天使相応に落としてもなお、超越した魔業をその身に宿す第五熾天使にとっては、そよ風程度のつもりなのだろう。
だが構わない。元々パールコーストの狙いは神聖領域を有しない下位の天使の物量だ。
熾天使ではない。それを仕留めるのは……
「天使級の動きは暫く封じる。大天使級もある程度は抑えきれるだろう。
K.Y.R.I.E.の諸君は――最重要目標に向かってくれたまえ」
レオパルの言の通りレイヴンズこそが希望。そして特記戦力だ。
「我々の存在は君達をアレクシスの下まで送り届ける事が出来れば、それでよいのだ」
「レオパルさん――」
「こちらは気にするな。一度封じると言ったのならば、必ず封じ込み続けてみせる。
ブリーフィングでも告げただろう? レイヴンズを脅かす物量の相当量は我々が引き受けると。
君達は、ただ前を向けば良い。
天使の動きが乱れている今ならば……アレクシスに接近する事も不可能ではない筈だ。
あぁ――ただ、そうだ。一つだけ頼みたい事があるとすれば」
瞬間、レオパルは一息付いてから。
「――必ず勝ってくれ。そして、マシロでまた会おうK.Y.R.I.E. 諸君」
レイヴンズの瞳をまっすぐに見据えながら、斯様に告げるものだ。
どこまでも美しく洗練された――敬礼と共に。
※アレクシス・アハスヴェールの戦場で、キャンプ・パールコーストの大砲撃が加えられました! 戦場に新たな展開が生じています――!

