揺曳


 
 有り難くない残響は、有難くないが故に悪夢と呼ぶのだろう。
 もう手を伸ばしても届かない、二度とそれを正す事は出来はしない――
 誰一人が悪くなかったとしても、絶対にそう割り切れはしない。
 それは九相寺・大志(r2n000122)が軍人だから。
 多数の部下の命を預かり、愛する国を、人々を守るべく戦った――一人の男だったから。
(……嗚呼)
 それはまるで意識のだ。
 古傷を傷ませ、化膿した傷口がじくじくと致死に足る痛みを呼び起こす――
 記憶の中の波打ち際は淑やかに暗く、溶けた夜は飽きる事さえ無く、何度も寄せては返すのだ。
 ――これは夢だ。悪夢なんだ。早く醒めねば。
 分かっているのに。夢に囚われた正気が、言うことを聞かない。
 ざぶ。ざぶ。立ち尽くす大志のすぐ目の前で、足元で、波打ち際そんな場所で――蹲って、手探りで何かを探してる兵隊がいる。
「どうしたんだ? こんな場所で……」
 暗闇に目を凝らし、大志は問いかけていた。
 同時にふっと気付くのだ。この制服、自衛隊の――それに蹲っているにしては姿勢が妙な――
「無いんです」
 ゆらり、兵隊が顔を上げた。
 幽鬼のような貌だった。泣いていて、奇妙にねじれて

 ざあざあ、ざあざあ。
 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ……

 耳障りは、寄せて返す。寄せて返す。黒い波。くるくるころころ、たくさんの細長いものが踊っている。クラゲの脚のような――兵士の身体からそれは――脂でてらてらとして血で濡れて――
「ないんです」
 兵士の口からどろりとした黒いものがし滴り落ちた。

 ……これは悪夢だ。
 いいや。
 

「げほッ―― う゛ッ、ぐ、ごほっ」
 大の大人が白い便器の前に蹲って、胃の中身をぶち撒けている。
 ベッドから跳び起きた大志は、ここが夢から覚めた現実でありますようにとひたすら祈る。
 嫌な夢。今見たアレは――足のない兵士の光景は――誇張された夢なのだと、自分自身を諭すけれど。
 こびりついて離れない。
 何度も何度もフラッシュバックする。
 海鳴りが聞こえる、ここは陸地なのに。
 波に揺れている、ここは船上じゃないのに。
 
 痛い。頭が。腕の古傷が。
 痛い。意識が揺れて、今と昔記憶が混淆する。
 震える手がレバーを引いて、吐き出された後悔が渦を巻いて流されていく。
 視界が灰色だ。
 灰色の、暗澹とした、――も、嵐だった。
 まだ『九相寺・大志』という男が、海上自衛隊特務艦隊司令と呼ばれていた日。
 もう二十年近く昔の話だ。超常指定:甲級掃討作戦が決行された
 ――九相寺・大志が、人生で最も大きな罪を犯した日。
 罪に対する罰のように、の灰色が男の脳に這い上がる――


 雄偉の具現のような船団が、大海原を奔っていく。
 不穏なる嵐が一帯を包むものの、海上自衛隊の秘密組織であり超常的な事態に対応する『特務艦隊』の面々は、誰も彼もが威風堂々と前を向いていた。
 人類が出会った――出会ってしまったこの災厄は強く行き止まりを想起させるものだった。
 されどこの部隊は――少なくとも自分達はに用意された手段だと自覚していたからだ。
「そろそろか……」
 呟き、オペレーターへと目線をやればであった。
 厚いガラスの向こうに目を凝らせば、水平線より手前にの影が目に入った。
 それは言わずと知れた自衛隊の友、極東最強の戦力を誇る米国第七艦隊の一部であった。
 彼等は戦力の相当をこれまでの戦いで消耗しながらも自衛隊と連携して極東エリア最大の抵抗拠点の一つとなっている日本列島を守る人類の確かな守護者である。
「良し。合流は問題ないな。問題はこの先だが……」
 大志は己が双肩に圧し掛かる重い責任に身震いする想いだった。
 寸前の大戦力の趨勢はそれ自体が人類の未来を左右してもおかしくない、重篤な意味を持っている。今回の作戦、アメリカ陸軍を海上から補佐するこのプランを成功させる事は大志のみならず、日本国民、アメリカ国民のみならず、人類にとって果たさねばならない重要プランであった。
「レーダーはどうだ?」
「駄目です、この嵐に突入してからずっと
 ただ、の話ではあったのだが。
 大志は何となく妙な胸騒ぎを感じていた。
「神秘探知は」
「――、少々お待ちを……哨戒に連絡を取ります。
 何か……いや、駄目だ。途切れ途切れで上手く拾えない……」

 ……はオペレーターがそこまでを告げた時だった筈だ。
  轟音が衝撃となって艦を揺らしたのを覚えている。

「敵か!?」
「わ、分かりません……ッ!」
 日本近海一帯は人類の掌握エリアだった。
 それより外洋に進行し、太平洋側からアメリカへ進むその最中に起きたは誰にとっても予期せぬものだった。


 警報が鳴り響く。
 から見るにそれは――大志達の
 即ち、応対せねばならぬのは、天使かそれ以外か。何れにせよ
甲種規格外以上とは……!)
 戦い慣れか、それとも血の気の多さか。
 臍を噛む大志と慌ただしい情報収集から準備を進める艦内より早く、「敵対勢力と思しき、巨大生命体を目視。これより攻撃行動に移行する、援護されたし」と端的な連絡を寄越したアメリカ軍はすぐに反撃体制を整えていた。
 やっつけの補修後の目立つ襤褸の原子力空母から発艦し、空に飛び立つ銀翼戦闘機はいずれもエースパイロット。
 機体に描かれた数多の『割れた天冠』は、それまでのを物語る。
「どこ撃っても当たるな、的がでかいと助かるぜ」
 、有り得ない遭遇戦、目視での距離のドッグ・ファイトを強いられても歴戦のエースは不敵に笑う。
 距離が近過ぎる。アウトレンジを赦さない戦闘は空に浮かぶ戦闘機木っ端の運命を翻弄しよう。
 だが――
「――!」
 吠えた彼は碌な整備もされていない愛機の操縦桿を強く握り締めた。
 弾切れのミサイルの代わりに機関銃を叩き込み、自身の鼓膜が破れそうな位に声を振り絞る。
 真っ黒い。どうして。巨大な。何かが。絡みついて。影が落ちて。
 操縦桿を幾ら動かしても、なにも、もう、動かな、どうして、なにが、どうしても!
「一昨日きやがれ、
 コックピットに亀裂が走り、黒が壁が高速で360度迫って来るその時までも。
 エースはエースらしく誇らしく、祖国と同盟国の――いや、人類の勝利の事を信じていた。


「撃て! 撃てェーーーッ!!」
 海を奔る護衛艦きよつきは、対神秘戦闘の為に改装された特務艦隊所属軍艦である。艦砲が雷と吼えれば海が震え、対神秘呪法ミサイルが唸りを上げて嵐を切り裂く。
 立て続けの爆炎。衝撃。もし位階ある天使であろうとも、まともに直撃すれば神聖領域という守護がなければただでは済まぬ猛攻だろう。
 ――が。
「我々は、……起きたまま悪夢を見ているのか?」
 きよつき艦長は呆然と呟いた。
 嵐と爆煙の向こう。巨大な影は、数多の触腕は、
 当たっている。神聖領域はない、ダメージにはなっている。そのはずである。
 なのに。まるで――その結果を言い表すなら。
 それは。
「攻撃、来ます! 躱しきれません!」
「結界班ッ!!」
 横薙ぎに、海をめくり上げて迫り来る
 当たればどうなるかは、既に黒煙を上げて傾く別の艦が、残酷に物語る。
「しなとの風よ護りたまい幸いたまえと畏みも申す!」
 甲板に並ぶ結界術師が一斉に術式を展開する。世界の裏側を統べると表に君臨するの融合は、その圧倒的な戦力の強化は天使達が終末を運んできた事から産まれた、唯一と言ってもいい好意的な副産物だ。術師達の力をが補強すれば、十重二十重とえはたえの風の結界が艦を包んだ。それは斥力という防護の陣である。
 艦が大きく揺れた――海水が甲板に降り注ぐ――弾かれた触腕が、下がっていくのが見えた。誰もが安堵の息を吐く。
「よし、防い――」
 ――でいない。なれども。
 

 ぐしゃり。

 ぐしゃり。

 ぐしゃり。

 

「――あ」
 甲板を見下ろす大志の視界は最悪の光景に支配されていた。
 巨大すぎる触腕に薙ぎ払われた艦が宙を舞って、そこから人体が光景は幾度の夜を超えても褪せない、覚めない。
「ああ、ああ、あああ……」
 壊れて、いく。壊されて、いく。何もかも、何もかもが。
 あの巨大なバケモノがに、何かが壊れて、誰かが死ぬ。
 人類の希望が、それを託す大戦力が傾いて、捻じれて、潰れていく……
 こんな予期さえ出来ぬ災害に。天使ですらないに!
「護衛艦さかき、シグナルロスト。コールサインジェード、シグナルロスト。四方田呪術分隊、シグナルロスト。――応答せよ、応答せよ、誰か、……
 ……九相寺司令、これはもう! これ、もう……私達しか、……」
 オペレーターの絶望的な声が、インカム越しに届いた。或いは司令官である大志が乗るこの艦だけが……今、この嵐の海に浮いている唯一の船であるかのようにした。
 いや、大志はそれがである事を心の底から祈っていた。
 これまで数多の強敵と戦った。無数の神秘と相対した。
 その中には『絶望』と形容すべき脅威もあった。
 だが――これは――

 ――――

 ……少なくとも大志は目の当たりにしたに戦慄せずにはいられなかった。
 壮絶すぎる純粋暴力を前にすれば。
 積み上げてきた知識ノウハウも。培ってきた戦術タクティカルも意味は成さないものなのか!
「ふざけ……ふざけるな……!」
 海から伸びた数多の触腕は、さながら世界を衝く黒き巨塔。
 艦を鳥籠のように取り囲み、嵐の中で揺らめいて。
「わ わた、わたしたち、しっ 死ぬ、んですか?」
 震えるオペレーターの声は、確信してしまった死の気配に焦燥しきっていた。
「こんなっ こんな、海で、あんな、デタラメに壊されて、」
!? 諦めるなッ!!」
 大志は司令として声を張り上げる。冷静であるからこそ圧倒的不利と不可能を残酷なまでに知りつつも、それでも。
「我々はまだ生きている。ならば!」
 生きて帰るのだ。撤退を。その為に全力を。
「我々はこれより全力での撤退及びその支援を開始する!
 本艦は戦える。友軍は可能な限り援護するが、不可能状況はする!」
 大志という希望に全てを懸けて、動揺しながらも隊員達は頷いた。
は任せる!」
「司令は何処へ……!?」
 誇りの軍服コートを引っ掴んだ大志の背をそんな声が追った。
 決まっている。そんなものは。

 能力者が今ここで発揮出来る最高のパフォーマンスは、指揮にはならないだろうからな」
「わ、私も同行します!」
 大志の言葉は無論「俺を見捨ててくれるなよ」という皆の士気への釘刺しも兼ねていたから――そう申し出た結界師の青年の言葉を彼は断り切る事は出来なかった。


 暗転、して、真っ暗闇、で。
 ゆら、ゆら、揺れている。世界が。
(なにが、おきて、……)
 ぐらぐらして、ゆらゆらして、上手く思考が動かない。
(そう、だ、部下を、艦を、護らな、ければ――)
 己は旗艦の甲板に居て。甲級と戦っていて。撤退している最中だったはず。
 部下はどこだ。艦はどこだ。暗闇の中、大志は必死に意識を浮上させようとして――
「司令……」
 さっきまで隣にいた結界術師部下の声が聞こえた。
 彼の名前をもちろん知っている。まだ若い、隊に入ったばかりの、才に溢れる青年で。
「昔、自衛隊のひとに助けてもらったから、今度は私が助ける番になりたいんです」
「一人でも多くの人が笑顔で居られるような。そんな世界になるといいなって、思うんです」
「なんて、ありきたり……ですかね?」
 いつだったか、花見の、桜が舞い散る中で、彼はそう言ってはにかんでいた。
 ありきたり? そんなことはない。
 誰かの為に命を懸けられるなんて、それだけで、かけがえがなく立派じゃないか――
「しれ い……」
 記憶が混ざる。意識が揺れる。
 どうにか開いた大志の目に、ほんのりとした輝きが見える。
 結界だ、と思った瞬間、大志は全てを理解する。
 ここが昏く黒い海の中であること。
 自分が護りそこなったこと。
 辺りに艦と人の欠片が、漂っていること。
 自分が球状の結界に包まれて護られたこと。

 ――結界を施してくれた部下の腰から下が、千切れてなくなっていること。

「ッ……あ、あぁ、あああ……!」
 血が、出て、中身が、駄目だ、助からない、それでも大志は手を伸ばして、暗い海に揺蕩うその身体を掴もうとした。けれど。
「ご無事 で、よかっ、 ……」
 嵐の海が渦巻いて。血だらけの波が流れて。流されていく。遠ざかっていく。
(待ってくれ、)
 どれだけ、そう願っても。
俺だけが、生俺が皆を死き残るなんてなせたんだ!)
 どれだけ、後悔を叫んでも。
 遠ざかっていく。
 遠ざかっていく。
 いかないで、願っても――遠く、時間は去っていく――


 瞼を開いて、大志は回想の緞帳を下ろした。
 水を全て流し終えたトイレの水面が、視線の下で揺れている。
 瞬きを一度、二度。ここが現実で現代であることが、身体と意識に染みていく。
 揺曳する記憶は、未だ男の胸の奥でこちらを見つめているけれど。
 長く長く息を吐く。揺れている水面を睨み返し、大志は。
「お前はなんの為に生き残ったんだ?」
 自問する。
 分かり切っている。
 決まっている。
 確定的に明らかな――愚問だった。
 決まっている。



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