人の願い、神の罰
誰もが願ってきた。
必ず世界の連絡を、青い秩序を取り戻すのだと。
あの遥かな海を超えて先に行くのだと。
東京に。海の向こうに。もっともっと、その先へ。
地球は丸いのだと再び知覚できる、水平線の先へ到るのだと――
されど、それを阻むものがいる。
クラーケン。制御不能、相互理解不能の大怪物。いやさそれは厄災だ。
それは人類が新たな未来を見据えるのなら必ず超えなければならない障害に違いなく、少なくとも海洋国家である日本が世界に接続を図るのなら、太平洋は無視出来るルートではない。
これは本来の計画よりはずっと早い。
だが、運命を試すような戦いは――世界の試練は誰かの準備を待ってくれた事等あっただろうか?
否である……そして。そして、それ以上に。
嵐の日を知る者は、誰かを失った者は夢を見ずにはいられないのだ。
自らを突き動かす内なる声を聴かずにはいられないのだ。
――私の仇をとってください。
どうか、アレを倒してください。私たちの命を奪った怪物を。
クラーケンを殺してください。
幻聴だ。悪夢だ。されど、確かに見えて聴こえている。
あの事件と被害に伴う呪いには何時しか診断名がついていた。自己犠牲症候群。そう呼ばれる衝動の正体は過ぎた義務感と帰らない日々に対する憧れ、生き残ってしまった事に対する罪悪感が根源だ。
――クラーケンを横須賀へ誘引するための作戦を開始する。
だから『横須賀キャンパス長』九相寺・大志(r2n000122)がそう言った時、少なからぬ人間が安堵した。まるで死にに行けという位の強烈な言葉にも安堵してしまっていた。だって、その言葉は――宣誓は、号令は。無限に囚われた悪夢の水底で鬩ぎ合う理性と本能の両方に赦しを与える救済に違いなかったから。
「横須賀にクラーケンを呼び寄せる……か。九相寺司令、そんなことが可能なのだろうか?」
「可能さ。クラーケン好みの力が食べやすい形で存在しているんだ。必ずやってくる」
『美しき航路とならん』八王寺・美澪(r2p007720)の表情が強張る。
……この巨大な魚釣りは当然ながら無茶であり無謀だ。
しかし勝算がないかと聞かれれば、あると――答えざるを得ないのも知っていた。
人類はあの強大な熾天使さえ破ったのだ。不可能に不可能を重ねたゼロコンマを運命は撃ち抜けたのだ。
その為に横須賀は準備を重ねてきたのだから、無論クラーケンさえゼロではない。
レイラインを乱した件のクソ野郎のせいで完璧に程遠いのは確かだが、それでも今、何処でやるのが一番かと聞かれればここしかないのは確かで。例えば、キャンプ・パールコーストの横須賀基地司令たる浪花アルネ(r2n000145)に聞いたとて同じ答えが返ってくるだろう。
「不満か?」
「別に」
「……不可能と思うか?」
「思わない。いや、思うべきでもない――と、思う」
当を得ない美澪の言葉は、しかして紛れもない真実であった。
かの大怪物を倒すのは、横須賀をおいて他にない。
場所は良い。
迎撃態勢は完璧ではないが整っている。
士気はこの上なく上々。
作戦内容自体は合理性があり、タイミングは此処しかない。
であれば、賛成する理由しかない。
分かっていても――分かっていても、笑う事が出来ないのは、ただ。
――どうしても、怖いだけだったかも知れない――
戦いに怯えている訳ではない。
単に敵が恐ろしい訳でもない。
恐らくは向き合う事そのものに怖気立っている。
それは理屈ではない、根源だ。
深海のような恐怖なのだ。
されど、もう。きっと賽は投げられたのだ――
「では関係各所に連絡を。浪花司令の裁可を仰ぎ、作戦発動の為の準備を始めよう」
苦笑いと共に小さく頭を振った美澪の顔を大志は覗く。
「美澪君……?」
「……ああ。あとはお客様を無事に横須賀に運ばなければならないがね」
「……そこに関しては問題ないのだな? 九相寺司令」
「まさか向こうもこちらが迎撃と同時並行で光の領域を閉じ移動する準備を整えているとは思わないだろう。それが出来るとしたら……文字通り神の領域だからね」
「……と、まあ、多かれ少なかれ? そんなことを思ってるのでしょうけどねえ」
通賢黙娘は、まるで現場を見て来たかのように呟いた。
「いやー、正直理解出来ない傲慢さですよ!
彼等は何時でも進歩するのが、学習するのが自分達だけだとすら信じている!
世界の、運命の加護を受け取るに相応しいのが人類圏だけだと硬く信じ切っている!
……これは驚くべき驕りですよ、て言うか信じられない位の論理破綻です。
待てば海路の日和あり……その日和ってカミサマからの授かり物だったりしませんかねぇ?」
ピースサインを目の横に出して、ペロリと舌を出した通賢黙娘は「つまり、私じゃないですか!」と言葉を結んだ。
人類なる霊長類の成長性――それはある程度認めてもいい。
あのアーカディアの天使を倒した手腕などは、まさに称賛されるに相応しいものだった。
通賢黙娘だってその場にいれば手を叩いて褒めていたかもしれない。なんならブラボーと歓声をあげたっていい。
しかしながら、ハッキリ言えば――そんなことが出来てしまったからこそ思考に隙が産まれている。
クラーケンを誘引する?
防衛作戦の完遂と同時に光の領域を閉じ移動する?
「……ま、理論上は出来るんじゃないですか?
いい作戦かも知れませんねぇ。それが想定されるって事に目をつぶっておけば」
人智を超える神は、その可能性に自分が気付かないと思っているのだろうか? と鼻で笑う。
たかだか知り合っただけの人間が。
あれを碌に理解しない人間が――
どうして通賢黙娘以上に彼女を知ると思い上がれるのだろうか。 自分が真月里が言い出しそうなことを想像しないと、どうして思えるのだろうか?
わざわざ羽付きどもが光の領域を狙うのを見逃したのを何と思っているのだろうか!?
「神じゃなくても分かりますよ、そんなもの。
想定の範疇に決まってるじゃない。私が人間共でも最初に疑う。
嗚呼、なんたる愚か! なんたる浅薄!
けれど、真月里を守ろう何てその意志だけは褒めてあげる!
嗚呼、おめでとう! 上出来よ、合格よ。おお、ハレルヤってね!」
祝福。
そう言うにはあまりにも、その笑顔は歪んでいる。
されど当然だ。通賢黙娘は人類を、天使を……全てを嘲笑しているのだから。
どうしようもない位に彼女は神だ。
――どいつもこいつも、クラーケンを自分の思うように動かせるのだと驕っている。
そんなことが出来るのであれば、とっくのとうに誰かが上手く利用している。
それが出来ないからアレは怪物なのだ。
ただ、ガオーと暴れるだけの無差別暴力装置でしかない。世界を余さず壊したいと願うのであれば、その願いだけは叶うだろうけども。
饒舌から沈思黙考――
「通賢黙娘様? 何か、御懸念でも?」
「今後の海のことを考えていたのよ」
心配そうに自分を見つめる副官気取り――確かアトラ、とかいう名前だっただろうか――に通賢黙娘は形だけの笑みを浮かべる。
「綺麗でしょうね、そんな世界は」
「そうですね……あの光の結界を破壊し、月の神霊を吸収して。
それで、通賢黙娘様はクラーケンを制御する力を得る! やがて全ての陸は沈んで……
嗚呼、清浄なる海の世界がすぐそこに見えます!
私たちの悲願がようやく実現する時が来るのです!」
「その通りよ、アトラ。その為にも頑張りましょうね」
アトラ、可愛いアトラ。
通賢黙娘が――神が土着の生物如きの願いを叶えてくれると信じている、愚かな娘。
通賢黙娘が求むるのは、この世でたった一つ。
それは大切だとか。ましてや愛だとか。そんな人臭い何かじゃない。
真月里が何を望もうと、何を考えていようと関係ない。
通賢黙娘は通賢黙娘以外の何かを慮るようには出来ていないのだから。
(……ああ、でも。人間だけは殺しきらないとだわ。
羽付きの残飯処理は気に食わないけども。
残しておいたらどうなるかは、もう充分に思い知ったから。だから今度は全ての大地を沈めて殺し尽くす。クラーケンを思い通りに動かせると思うのなら、やってみるといい。そして絶望と共に沈めばいいわ。ええ。そうよ。だって、それこそが……)
それこそが、人が招き人が受けるべき天罰であるのだから。
――セーラー服の裾が海風で、微かに揺れる。
遠い彼女がいつか可愛いと言った、人間の服。
服装までも好みに合わせて、通賢黙娘は想う。
(愉しいでしょう? 永遠は。
今度は……今度こそ、人間なんかが居ない世界で青く、遠く……)
まるで人形遊びのようじゃあないか。
想い合ってはいる。絶対に交わらないことを、お互いに知らないままに。
※広域地理情報管理システム『アストラチカ』のメジャーバージョンがアップデートされました。
更新内容
・日本地図掲載←New
・新人類圏地図掲載←New
・世界地図掲載←New



