悲しいばかりのフェアリーテイル
夜の海は無限に似ている。
全てを飲み込むようでいて、全てを拒むようでいて、光なき世界が、さざなみの音だけで自らを示す。
ただそれを、シーソーやブランコみたいに楽しいものだと思えた自分は、もういないみたい。
「トレサリス様。こんなところにいらしたのですね」
声がして、白いドレスの女――トレサリスは遠くを見たまま『ええ』とだけ答えた。
行き場を無くした天使達の止まり木こと、ペルチスカ島。
房総半島洋上に停泊しているこの島の、端。
深いスリットの入ったドレスを砂地におろし、彼女は投げ出した脚を組んでいる。
しばらくのあいだ、波の音だけが続いた。
静寂に。
闇に。
その中で唯一、淡く光るトレサリスの海月型の笠。
世界に取り残されて揺れ続けるような。
全てに裏切られて漂うような。
どこへも向かわず、ただ流されてしまった一人の女が、そこにいるような。
天使――あえて名を述べぬこの者は、執念をもったフォトグラファーに切り取られた写真めいたその風景に、しばし見入っていた。
やがて、はっと我に返り、姿勢を正す。
「蒼きオルニエールの再編成が整いました。それと、観察班から例のモノの活動開始の報告も。残念ながら、千獣軍団のヴィトー殿はクラーケンに襲われ随伴していた天使たちも……」
天使の声は震えていた。
「あのヴィトー殿が、たったひとなでで消されたのです。クラーケンが、よもや、あれほどのもの、とは……」
「落ち着きなさい。分かっていたことではなくて?」
対して、トレサリスの声は落ち着き払っていた。
それこそ夜に聞こえる波の音のように、まるで乱れることもなく。
ずっとずっと前から知っていたかのように。
「ヴィトー。野心のあるいい子だったけれど、軍団に合流できなかったのは少しだけ痛いわね」
少しだけ痛い。
いい子だった。
トレサリスの評価は、それだけだった。
権天使級がひとなでで消されたのだ。天使であれば震え上がって然るべき状況である。
それなのに。
それなのに……?
天使は、トレサリスの背中に不思議な物悲しさを見た。
怪物に動じない強さでは、なく。
とにかく、と天使は声を張って話を続けることにした。
「貴方様のご慧眼の通りです。クラーケンが動き出すとあらば、人類はその足止めに軍を裂かざるを得ないでしょう。領域の力を奪いとる第二の機会は、まさに今かと」
握りしめる拳の力が伝わるほどのこわねを聞いて尚、トレサリスはまだ遠き無限の闇を見つめている。
「まさか。ワタクシがあの怪物が動きなど、予想できるはずもなくてよ。
ただのあてずっぽう。たまたま上手くいっただけ。少しだけ待ったら、良い機会が来ただけよ。第一、待てと言ったのはイェラキのほうじゃない。
ワタクシなんて――」
あまりにも投げやりな言葉に、天使が今一度声を張った。
「そんなことはありません! トレサリス様、貴女が私達の居場所を作ってくれた。憎しみの使い方を与えてくれたのではありませんか。なぜ、そんな……」
今もなお、振り返らない。
天使はおそるおそる歩を進め、トレサリスの隣へと立った。
膝にのせていた彼女の手が上がり、ぽんぽんと隣を叩く。
そのジェスチャーの意味するとおり、天使は少しはなれた位置におずおず腰をおろした。
「もっと近くに。波の音で消えてしまうでしょう」
「は、はい……」
慌てて座る位置をずらした天使の腕を、トレサリスは引いた。
思ったよりも近い位置に座ることになって、身体をこわばらせる。
肩のあたるほどの位置。
トレサリスは、それをただ許した。
闇の中にまた、波と静寂だけが流れる。
またもそれを切ったのは、天使のほうだった。
「……あの、トレサリス様。突然、こんなことを聞いてよいのか、わからないのですが」
「よくてよ。言ってご覧なさい」
トレサリスの横顔は、まだ遠い無限の闇を見ている。
怯えも悲しみも、なにもないように。
「トレサリス様は、人類を憎んでいらっしゃいます」
「そうね」
「トレサリス様は、その憎しみをもって人類を殺しつくすことを、目的としていらっしゃいます」
「そうね……」
「私達はそれに賛同し、軍団に加わりました。協力者たちとて、大なり小なり同じ目的を持っています。ですが……トレサリス様ご自身はなぜ、そこまでヒトを憎むのですか?」
たしかに、トレサリスの顔に怯えも悲しみもない。
だがそれは、何もないからじゃない。
彼女の瞳の奥にずっとずっと満たされている、憎しみと怒りが、まるで白いワインでいっぱいになったグラスみたいに、それ以上の何かが混ざることを拒んだだけに、みえたから。
「そうね」
トレサリスは三回目の『そうね』を呟いて、無限の闇を見つめ直した。
「『おとぎ話』を聞かせてあげる。
けれどがっかりしないで。このお話には清らかなお姫様も、優しい王子様も、幸せな魔法もでてこないわ。ハッピーエンドもね。
いうなれば、そうね――悲しいばかりのフェアリーテイル」
それでもいい?
問いかけるその時だけ、トレサリスは天使の目を見た。
永遠の闇みたいな。
夜の海みたいな。
そのなかをいつまでも漂う、海月のような瞳で。
むかしむかし、あるところに。
ひとりの女がいました。
女は壊れた世界の中で、目覚めた堕天使の力をもって戦う者のひとりでした。
たくさん仲間が死んで。
たくさん天使が死にました。
けれど女は、それを不幸だなんて思いませんでした。
壊れる前の世界は、彼女にとって決して幸せなものではなかったのです。
朝起きて、中途半端に遠い駅までの道を歩いて、ぎゅうぎゅう詰めの列車に押し込まれて、働いて、働いて、日が暮れても働いて、振ればカラカラ鳴りそうなほど空虚な最終列車に乗って帰って、誰もいない真っ暗な道を歩いて帰って、寝る。その繰り返し。
生きるために生きて、目的も無く流されて。
言われるまま、求められるまま。自分をただただ、消費していく毎日。
世界がどれだけ平和でも、預金残高がどれだけ増えたとしても、なにひとつ嬉しくなんてない。
ただすべてがどうでもよかった、そんな日々。
それが壊れた時、彼女の世界もまた、変わったのでした。
お金が紙くずになった。
偉い人が泣いて縋るようになった。
それまで頼ってきたどんなものも、頼りにならなくなった。
代わりに、女は堕天使の力を手に入れたから。
彼女はもう、生きるために生きてなどいませんでした。
天使を屠る力が求められ、お金よりも価値のある存在になれたのです。
誰もが彼女を求めて、敬って、なによりも大事にしてくれる。
まるで彼女はお姫様のようでした。
だからそうなることは、きっと必然だったのでしょう。
世界が結託して人類軍を作り上げたとき、彼女もまた、その中に加わりました。
彼女を頼りに集まった人々には住まいが与えられ、彼女には魔法の武器と沢山の物資と、一緒に戦う仲間と、より効率的な戦いかたを教えてくれる上官が与えられました。
年若く物腰の優しい上官に、彼女が恋をするのもまた、必然だったのです。
強くなるために。皆をまもるために。
そんなお題目を一緒に唱えれば、彼はいつもそばにいさせてくれました。
戦いかたを教えてくれて、身の上話を聞いてくれて、こっそりみつけたお酒を分け合って、みんなに内緒で触れ合って。
怖くて悲しいこの世界で、女ははじめて、温もりに出会ったのでした。
そんなある日。
拠点にしていた軍基地をついに放棄しなければならなくなりました。
押し寄せる天使と、荒れ狂う変異体たちの中で、尽きていく一方の物資。ただ死を待つより、最も安全だと言われる都市への移動が決まったのです。
それは決して、やさしい旅ではありません。
多くを失うでしょう。沢山死ぬでしょう。
だから皆さいごの夜は、一番大切なひとと過ごすことにしました。
きっと生きてまた会おうね。大好き。愛してる。そんな言葉が沢山のひとの間で交わされて、もう二度と会えないかもしれない人との時間を、大切に抱き合っていました。
だれもが不安に震えて、けれど覚悟に燃えて。
そんな中で女はけれど……幸せでした。
彼女には目的ができました。
彼女には一番ができました。
厳しい戦いも、この先に待つ苦難も。女にとっては都合の良い世界だったのです。
みんなのように、きっと言おう。愛してる。大好き。きっと生きてまた会いましょう。そんな言葉を交わす相手は、もう決まっています。
女ははやる気持ちをおさえながら、上官のもとへと行きました。
いつものように。内緒で触れ合っていたときのように。
扉をこっそりと開いて、薄暗い部屋を。
覗き込んで。
それで。
見たものは。
若い女と上官が抱き合う風景でした。
口づけを交わしていた二人が、囁き合うのが聞こえました。
愛してる。大好き。きっと生きてまた会いましょう。
女は、音をたてないように扉をしめて、踵を返しました。
部屋の中でこちらに気付いた気配がしたけれど。
彼女は、走りました。
無限に暗い闇の中へ。
恨み言も残さずに。
女は、遠くへ、遠くへ、逃げるように。
目的も、一番も無い場所へ。
走って、走って。
走って。
いつしか女は――トレサリスになっていたのでした。
「ねえ……くだらない話でしょう?」
さざ波だけがある闇を見つめて、トレサリスは問いかけた。
やっと息のしかたを思い出したように、天使が訊ねる。
「その男たち……は……?」
「さあ。きっと死んだわ。海に船ごと沈んだもの」
闇を見つめる瞳に、揺らぐものはなく。
ただ水流に流れる海月のようで。
「本当に、くだらない話。フラれた女が、逆恨みをしているだけ。いいのよ、わたしをばかだと笑っても」
「いいえ」
天使は触れた肩の温かさと、海風の冷たさを感じながら。
「貴女は教えてくださいました。憎しみの使い方。怒りの矛先。そのための場所……蒼きオルニエールのはじまりを、ばかになんてしません」
「言うじゃないの」
トレサリスはこつんと肩をぶつけると、砂をはらって立ち上がった。
「そうよ。ワタクシはただの女。逆恨みでヒトを滅ぼす軍団長。それでいい。そう決めたのよ。
だれが私をばかにしても、その全てを轢き潰す。
そうして作られた蒼き轍が、アナタたちの道となるでしょう」
胸いっぱいに海の香りを吸い込んで、トレサリスはようやく、微笑みを浮かべた。
「全軍に通達なさい。今こそ、ヒトの手から光を奪うのよ」
闇を瞳に宿したまま、女は――トレサリスは歩き出す。
「任せて。全部全部、壊してみせるわ」



