わだつみ


 ――暗い。昏い。どこまでも、果てしなく。

 曖昧な意識の中を、浪花 アルネ(r2n000145)は漂っている。
 そうして垣間見るのは走馬灯か、はたまた夢か幻か。
 アルネの視界にふっと広がったのは、戦闘機のコックピットの中の景色。
(あ…… これ……)
 ぼんやりとした意識の奥の方で思う。
(これ、母さんが乗ってた戦闘機の……)
 大破局の中、横須賀基地で生まれたアルネ――その母親ハリエットは米軍のパイロットだった。赤ん坊を産んだばかりの彼女は、産後というボロボロの身体で、それでも天使と戦う為に出撃を繰り返していたという。
 凡そ常人には不可能なそれを成したのは、ただひたすらに強い想いだった。
「――歩音アルネの未来を護りたいの」
 パイロットはマスクの奥で呟く。
 肉体はとうに限界を迎えていた。それでも彼女は戦った。
 娘の傍に居てやれと言う者もいた。それでも彼女は戦った。
 分かっている。本当の本音を言うと、娘の傍にずっと居たい。生まれたばかりの小さな体を抱きしめてやりたい。その成長を育み見守りたい。ずっとずっと、傍に居たい。生きていたい。
 それでも――

「娘の生きる空ひとつ護れなくて何が母親だ」

 羽つきイレイサーに機銃をぶちこむ。銀翼を翻し、その高速飛行は並の天使を寄せ付けない。そうしてアウトレンジよりを行う。大破局の只中であっても、米軍世界最強の技術力は
 こんなに滅びゆく世界で、夕日はどこまでも赤くて。
 敵を撃墜せしめた夕空を一人、鉛のような疲労感と共に飛んでいると、あんな悲劇は全部嘘だったんじゃないかって、ハリエットは沈む夕日にふと思うのだ。
 ゆっくりと瞬きを一つする。分かっている。そんなのは空想だ。
 ――基地に戻ろう。愛娘歩音のところへ帰ろう。早くあの子を抱きしめたい。
(私の、大切な……)
 ハリエットの生きた証。天使に殺された浪花啓一の生きた証。この世界で諦めずに生きていく理由。希望。願い。
 ふ、と帰還体勢に入る。
 ――その瞬間、レーダーに高速接近するモノが映し出された。
 天使。
 クソ。
 こんな時に……!
「ちぃッ――」
 ハリエットは舌打ちをする。どうする。戦闘直後で弾薬も燃料も心許ない。逃げる? だが使
 選択肢は端から一つしかなかった。

 夕日が煌めいた。
 燃えるように輝いた。

 赤色。

「あーあ」
 全ての天使の死と引き換えに、燃え上がるのは銀の翼戦闘機
 砕ける機体。鳴りやまぬアラート。遠ざかっていく空。近付いてくる海。
「ごめんね」
 歩音。私の歩音。
「母さん、もう帰れないみたい」
 嗚呼。……嗚呼、無念だ。嫌だ。ああ、死にたくない。ああ、ああ、神様、ああ!!

 ――この海に、幾つの悲劇が沈んだのだろう。

 夢が、無秩序に場面を変えるように、アルネの目の前の光景が移ろう。
 大怪物の触腕が、月光鯨真月里r2n000190)を打ち据える。身体を砕かれた精霊は、無念のままに嵐の中へと沈んでいく。
 ――あたしは、皆を護りたいのに。
 動けない体で、沈んでいく意識で、真月里がのは房総半島の沈没。大地が砕け、数えきれないほどの人間が荒れる海へと滑り落ちていく惨劇。「嫌だ」「死にたくない」「誰か助けて」と絶望し、泣き叫び、手足をばたつかせ90度の壁になったアスファルトに五指を突き立て、爪と指の肉が削げながら――あんなにも――呆気なく――死んでいく――
護れなかったごめんなさいあたしは負けごめんてしまったなさい皆を護れなかったごめんなさい!)

 また、景色が変わる。
 特務艦隊の艦が、第七艦隊の艦が、戦闘機が、大怪物の暴威に砕かれ壊され、轟沈していく。
 嵐の海に揺蕩うのは血と、バラバラの人体と、船の残骸。死が渦巻く。無念が渦巻く。
 自衛隊の男九相寺・大志r2n000122)は部下を失い船を失い、消えぬ傷を刻まれた。
 米軍の男レオパル・ド・ティゲールr2n000021)は『最強』という矜持を穢され、苦い敗走を焼きつけられた。

 そうして。
 いつしか人類は海の外へ出ることができなくなった。

 ――この海に、幾つの無念が揺曳しているのだろう。


 昏い海に囚われたアルネの耳元で、黒きわだつみ通賢黙娘r2p003175)が囁いた。

 黒い波が辺りを染める。そこに含んだ無念を、悲劇を、惨劇を、アルネの心に注ぎながら。
「ただ目を閉じて沈めばいい。
 ――受け容れてきたでしょう?」
 穢れも、淀みも、哀しみも、絶望も。
 目を閉じたままのアルネは唇を微かに震わせた。
(そう、だ、母さんも、大志さんも、レオパルさんも、……あんなに戦ったのに、失って――)
 この海には、もう、絶望しかないのか?





 ひとすじの光が、冷たい暗闇を照らした。

「アルネさんは知っているはずです。ここに在るのは、悲しいことだけではないと。
 戦った人たちの心に在ったのは、絶望と無念だけではないと。
 あたし達は悲劇の為に生きているのではないと。
 ――それを教えてくれたのは、あたしに思い出させてくれたのは、あなたたち」
 かみさまが掲げる杖に灯る、陽の気。溢れるほどの、まばゆい思い出。優しい記憶。
 それは黒きわだつみを退けさせよう。彼女が毒した黒い波を清めていこう。
「――大丈夫。ええ、
 何度だって伝えます。何度だって言いますよ。!」
 その輝きは望月のよう――煌めきはたくさんの手となって、精霊の形となって、沈んでいくアルネを……人々を、船を、海面うえへと押し戻していく。
「思い出して」
 知っているはず。
「あたし達が命を懸けて戦った理由――」

 月光鯨は、みんなの笑顔を願っていた。
 九相寺・大志は、平和と秩序を願っていた。
 レオパル・ド・ティゲールは、人類の勝利を願っていた。
 彼らと共に戦った軍人達は、そんな願いを叶える為に。
 そして浪花ハリエットは――

「歩音のことが、大好きだから。
 世界で一番、大切だから。
 あの子を護る為ならなんだってする。
 あの子に、空を。平和な空を。
 あの子に未来を。息ができる場所を。
 私の、たったひとりの、大事な歩音――」

 懐かしい声に、アルネは目を開けた。
 そうしてのだ。こんなにも当たり前のことを。
 ――悲劇は、在った。惨劇も、確かに在った。でもそこには必ず、それを乗り越えようとする意志があった。勇気があった。希望があった。
 
 振り返る。
 無数の輝きの中に、――母の姿があった。
「母さんッ!」
 理性で繋ぎとめるなんて無理だった。両手を伸ばし、アルネはハリエットの胸の中へと飛び込んでいた。
「歩音! ――、……」
 ハリエットはアルネを抱き留めたが、……彼女と同じ色の瞳を惑わせた。百戦錬磨のエースパイロットが、たじろいでいる。
 言葉にできない。「こんな壊れた世界に産んでしまってごめんなさい」、なんて。娘は心の奥で恨んではいないだろうか、「どうして生んだのか」と。「こんな世界で生きるぐらいなら、いっそ……」と。
 その眼差しを上げさせたのは、アルネの弾むような声と、笑顔で。
「私――
 生まれてきたこと。生きてること。嫌だって思ったことなんて、一回もない!
 ありがとう。母さん、私のこと、生んでくれてありがとう。
 ッ……護ってくれて、ありがとうっ……!」
 ちゃんと伝えたい言葉なのに、どんどん涙が込み上げて、嗚咽交じりになっていく。元気な笑顔を見せていたいのに、どんどん泣き顔になっていく。
(――嗚呼、)
 ハリエットはアルネを強く抱きしめる。
 嗚呼。

 私が生きた意味はあったのだ。

「歩音、愛してる」
 ハリエットが微笑んだ。その後ろには、この海に沈んだ全ての兵士らが笑みを浮かべていた。
 そうして水面を指さすのだ。お前は前に進むのだ、と。
 だからアルネは、――そっと母から離れよう。彼らに背を押されよう。前へ。前へ――
 大丈夫。
「ありがとう。いってきます!」
 戦い抜いた、全ての誇りに敬礼を。
 散っていった、全ての勇気に敬礼を。
 これは走馬灯なのか? 神霊の力が成した奇跡なのか?
 分からない。でも、確かな想いがここに在る。
(私は。生き残りわたしたちは。
 受け継いで。生かされて。望まれて。願われて。命懸けで護られて、ここに居る。
 この一歩は、全ての希望の末葉なれば――「あなたのみに福がありますように」、そう願われた名前歩音の通りに、歩んでいく!

 

ロストアーカディア二周年!