
インシデント・ゲイム
「……ッ!」
四方八方から悪意が伸びる。
不可視の力は強靭な天使の体躯すらをも捻り潰す致死性を帯びている。
空中で加速したベルトルドを追いすがる何か――空気を撓ませ、空間を歪める何かの正体は知れないが――自身の邪魔者、即ち天使を殲滅せんとする確かな意志を有していた。
(……未だに信じられん。私が視えんとは!?)
バルタザール麾下、智天使ベルトルドは楽園でも音に聞こえた武闘派だ。
その階梯こそ熾天使に及ばずとも、武芸百般を極め十一番目の男と呼ばれる彼は第二階級の中でも最強と目されている。
そのベルトルドにとって現在の戦いは悪夢と呼ぶ他はないものだった。
――視えない。だが、至極原初に暴力的。
極めて高い戦闘経験値とセンスを併せ持つベルトルドは麾下を引き裂いた敵の能力にすぐに見当をつけていた。
その一方で未だ敵の本質を見極める事が出来ていない。
強く睥睨した先――地上に立つ一人の男は両手をポケットに突っ込んで何かをしたようには見えないが、それは違う。
挙動外で展開される対軍攻勢は恐ろしく的確な殺戮を展開する合理主義の塊だ。正体不明の何かを操るのは間違いなくこの男であり、彼が動かないのは必要ないとでも言わんばかりであった。
(見える程度のモノが本質ではない。少なくともこの化け物は――)
……両目を閉じたベルトルドは研ぎ澄ませて、微かな気配を感じ取る。
(――だが!)
故に全方位から襲い掛かった見えない死さえ捕まえた。
ベルトルドが両手に備えた宝剣より無数の剣閃を疾れば、彼を取り巻く何かは雲散霧消を見せていた。
「おや?」
「見せすぎたな。慣れたぞ、貴様に!」
壊滅的な被害を受けた部下の死さえ意味を為す。
事これまでの戦闘で十分に積み上げたベルトルドは更に向かい来る追撃を見えないままに完璧に封殺した。
一度。
「無駄だッ!」
二度、三度。
「最早足りんぞ!」
学習したベルトルドにもうそれは通用しない!
四枚の翼を大きく開き、著しい加速を見せる。
「――智天使の刃を畏れ、後悔に死に逝くがいい!」
急降下しながらも彼はそれを阻む威圧の悉くを振り払い、余裕の顔を見せる男に肉薄せんとした――
――が、そこで。その動きが完全に止められた。
「見せていませんよ、何一つ」
薄ら笑いを浮かべた男の声は惨劇を望む虚空に良く通る。
「!?」
ベルトルドが自身に絡みつく細く黒い糸のような何かを知覚するのと、彼の翼が引き千切られたのは同時だった。
「ああああああああああ!?」
黒い影が過ぎり、眼球を潰して眼窩より体内に潜り込む。
腹には複数の穴が開き、悲鳴は喉を貫いた圧力に潰された。
「……っ、っ、ッ……」
最早声を出す事も出来ずに宙空で手足をバタバタを動かしているだけ。
残酷なシーンはまるで空中に縫い止められた早贄だ。
「慣れられてしまいましたからねえ。致し方ないでしょう?」
嘲りと共に糸が更に手足に絡む。右腕がねじり切られた。左足が引き抜かれた。
主より賜った宝剣が虚しく地上へ落ちていく。四肢、肉体が文字通りバラバラにされるまで大した時間はかからない。
集合した複数の糸が貪食の巨大な触手に変化して出来たての肉塊を呑み込んでいる。
「何事も中途半端は不幸を産むものです。では、ごきげんよう」
ばりぼりと何かを砕く硬質の音に目を閉じて男は涼し気に笑うだけだ。
「しかし、見えていないのは当然ですが、見せていると勘違いされるのも心外ですね。
この私を捕まえて、その程度であると見誤られるのは実に業腹極まりない」
平然としたままの彼は空高くを見つめ、語り掛けるように言葉を続けた。
「ねえ? そうは思いませんか、バルタザールさん」
そんな言葉と同じくして天空より赤雷が舞い降りる。男より僅か数メートル先、その目前に天地を引き裂く衝撃が突き刺り、地面を大きく割っていた。
「中々派手な御登場だ」
大地震のような揺れにおどけた調子を見せた男の目の前には赤い巨体が立っていた。
全身覇気に満ちた武人然たる威容は――有象無象の天使のそれではない。
背中の六枚羽と畏怖すべき王冠のようなヘイローは熾天使バルタザールの威風を轟かせている。
「初対面に不躾だな? 名乗った覚えは無いのだが」
「先程の方に教えて貰いましたよ。
では、折角です。お怒りの言葉を頂戴しましょうか」
「怒る理由は無いな。武を尽くして敗けた連中の恨み言を言う主義ではないからなあ」
「おや。情に厚い方にもお見受けしますが」
「別問題だ。惰弱な未熟者の敗北と、可愛い部下の借りを返そうと思うのは、な」
近しい間合いで互いに値踏みをするようにお互いを眺めていた。
言葉を交わす一方で彼我は剣呑な気配に満ちており、バルタザールは兎も角として男の方はこれが初めて見せる真剣な姿だったと言える。
「予想外の小細工無しか。期待以上の暴力の塊だ」
バルタザールの言葉に男は「相手が弱すぎまして」と肩を竦める。
「まさかこれ程に暴れてくれるとはなあ。お主、どれ程殺した」
「古きから数えればどうという事もありません。
それに皆さんが殺した方が余程多いでしょう?
これは、忠告を無視したであろうからこうなったまでです」
「忠告ぅ?」
「この世界の人類はほぼ全滅しているようですが――彼等は天使……と言うのでしたか。
原住民の方々は皆さんに言った筈なのですよ。『禁断にだけは近付くな』と。
ええ、皆さんは居てはいけない場所、つまり私の居場所に居るのです。態々ね。
禁足地が最後になったのは皆さんにとっての幸運か、それとも不運か。
この世界の方々にとっては大した不運だったのでしょうねえ」
言外に誰かを助ける気等は毛頭無かった事実は滲む。文字通り然して本気になる事は無く、言葉を借りるなら『何も見せず』天使の軍勢を屠ったそれは一見するならば優男の風にしか見えぬ。
但し、その見た目が本質を指し示していない事はとうの昔に知れていた。
「しかし、迷惑には違いありませんね。こうまで痛めつけられてはこの世界の何処に愉しみが残るでしょうか?
世界の全てを滅ぼすのが役目なのでしたっけ。それじゃあ例外は持てない訳だ。
いやはや、宮仕えも大変ですね。尤も、宮仕えでなくとも――
ええ。楽々と滅ぼした現地住民の忠告を聞くような方達ではないのでしょうけど」
「ベルトルドはそこまでお喋りだったか?」
確かに天使が舞い降りた世界の全てを洗い流すのは既定路線だ。
だが、一方的な虐殺をしたにしては男は天使に詳し過ぎた。
「聞いた訳ではありませんが、まあ知的好奇心というやつです。
少々気になったので先程の方も含めて――その辺りの個体を拝借しましてね」
「やはり、喰いやがったか」
「そう珍しい話でもないでしょう?
天使にもその程度の芸当をする個体はいる」
「情報が不公平なのは好かんな。
この期に及んで間抜けな問いをするが、お主は一体何者だ?」
長広舌も次々に滑らかな男にバルタザールは呆れて問うた。
どんな答えが返ろうとも大した意味がない事は知れていた。
いや、バルタザールは問う前に返って来る答えに見当をつけていたとさえ言える。
目の前の男は理不尽の極みだ。最悪にして災厄めいている。
そんな、天使を超える理不尽の持ち主等、知りうる限り一つしかない――
「――名乗る名前はありませんが、他称される事実ならば。
恩恵も、加護も、救いも何一つ持ち合わせませんけど。
私はこの世界の神、この世界そのものであるらしい。
……まあ、くれぐれも。大層な肩書を自分で名乗った覚えはありませんけどね?」
成る程、とバルタザールは合点した。
「では――今日から儂は神殺しになるのだな。
うむ、僥倖だ。実に感慨深い。そうこなくては!」
相手が神ならば予行演習にも丁度良い。
瘧のように湧き上がる興奮は部下を殺された怒り等を理由にはしていない。
彼等の無念を背負い、豪放なる戦斧を振るい、神に打ち勝つ。
最強の王に死した彼等が求むるは弔いではない。憎悪でもない。
今一度、改めて。奉じた王の最強――その証明のみに存在している筈だった。
「……………」
赤く、赤く膨張するバルタザールの威圧に男は少し眉を顰めた。
その瞬間、虚空より生まれ出た無数の触手はベルトルドを屠った糸に数倍するものだ。
触手はバルタザールの全身に絡み付く。
数千、数万に及ぶ天使を解体し、智天使に抵抗らしい抵抗さえ許さなかった他称神の初めての殺意は然して。
「何かしたかあ?」
避ける事もしなかったバルタザールの顎を掻く挙動で、戦斧を肩に担ぐ雑な挙動で。
逆にぶちぶちと引き千切られ塵芥のように宙に散っていた。
「眠いわ、痒いわ。甘く見るなよ、他称神。
他がどうかは知れないが――儂はお前に会って久方振りに滾っておるのよ。
分かるか? 否、お前には分かるまいな。この儂の望みを、燃える熱情を!
そんなつまらん手品を続けるならそっ首落とす――いや?
その傲慢な目玉ごと踏み潰すぞ、フリークス」
「……成る程、今度は此方が納得する番か。確かに貴方は他とは違う」
智天使は何も見えなかった――何も見せなかったが、この期に及べば彼は違うと断定せずにはいられない。
(初めてですね。これは驚いた)
自身の背後に揺らめくものを知覚出来る相手に出会った男は目を細めてバルタザールを眺めていた。
かくて、究極のインシデントが天使史上最大の戦いを産んだなら――これはもう不可避の決戦と呼ぶ他あるまい!
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