……返してよね
「――――」
眉を歪め、目を見開いたミハイルが声も無く血を吐く。
まるでスローモーションのように引き伸ばされた一瞬は、地上で起きた天使同士の決戦のその決着を告げていた。
(……く、そ……相変わらず厄介な野郎、だぜ――)
辛うじて膝で踏ん張る事で崩れ落ちかけた姿勢を堪えたミハイルではあったが、内心を問うまでもなく前後の攻防は決定的であった。
アレクシス最後の伏せ札、『悋気魔将の第七刃』は使い手に拠らない権能である。
現在の力の半分を失ったアレクシスはミハイルに有効な攻撃の手段の大半を失っていたが、これだけは別だ。今の彼が振るったとしても、最強の主天使たるミハイルを貫くには十分の鋭さを持っていた。
だが――
「――しぶといッ!」
――アレクシスの追撃を胸を抑えたミハイルは辛うじて躱す。
(効いてはいるが――どうやらミハイルは思ったより随分と強くなっていたみたいですね……!)
目を細めたアレクシスは目前の敵の能力を知識で持つ姿より上方修正した。
よろめいた彼がまともに動ける状態でない事は見て取れたが、この状況こそ『悋気魔将の第七刃』の裏目であった。
万全の熾天使権能ならば致命的な隙に一撃でミハイルを仕留める事も可能だっただろうが、ことこの技だけに関しては異なる。
今のアレクシスが使っても有効であるという事は、万全のアレクシスが使ってもその出力は変わらないという事である。
つまりミハイルを出涸らしのアレクシスが貫くにはこの手しか無かったが、この手では元より一撃で仕留めるには及ばなかったという事である。
とは、言え。先にアレクシスが考えた通り、以前までの――アレクシスがそう理解するミハイルならばそれで足りていた可能性も高い。
アレクシスには理解出来なかったが――執念だか何だかが人や天使を強くするという事実は、最早認めざるを得ない事実に変わっていた。
(一刻も早く、そして確実に! ここで仕留めねば――)
万が一、次等与えれば何が起きるかも分からない。自力で主天使にまで昇ったミハイルならば、熾天使戦を経て座天使を窺う可能性さえ否めない。
最悪の禍根を絶たねばならぬのは当然だが、それだけではなく。
目下最大の問題は襤褸のなりで未だ意気軒高なる人類の方である。
口惜しくもミハイルの権能で翼の三をもぎ落された。つまりそれは元より低下していたアレクシスの出力が更なる低下を余儀なくされるという変え難い現実であった。
アレクシス・アハスヴェールはもうミハイルに時間をかけてはいられない!
「――――!?」
アレクシスが飛来する巨大な気配に高速思考を阻まれたのはまさに絶対的結論を得たその瞬間だった。
――ずん、と轟音が響き衝撃が土砂を巻き上げる。
咄嗟に身を退げたアレクシスは一瞬だけ何が起きたかを理解出来なかった。
分割され、コマ送りの如く絶大なディティールを有する彼の思考は目の前で起きた馬鹿馬鹿しい事の理解を拒絶していた。
つまり、要するに。
(……ただこの巨大な岩を投げつけた、だと?)
誰が――と考えるより先にアレクシスは弾道学から軌道を計算し、速度と質量を偏差して彼方を見据えた。
「ミハイルちゃんは……やらせないから!」
相当な距離に構いもせず。あろう事かこの戦場の頂上決戦に、ただデカい岩を投げつけてきた不敬者の姿は眉を必死に吊り上げ、ふうふうと興奮した息を吐く一人の少女。
(アレは確かミハイル子飼いの――)
――偉大なるパノプティコンに唾したノエルカ(r2p006756)なる天使だった筈だ。
「……健気な飼い犬ですね、ミハイル!」
粛清対象が自身から姿を見せた事にアレクシスは皮肉な嘲笑を浮かべていた。
今更能天使如きに何が出来ると言わんばかりの彼の、
「な、に……?」
その余裕は次の瞬間には消え失せていた。
一条の光が駆け抜け、埃の向こうのミハイルの姿が掻き消えている。
アレクシスが視線を滑らせたその先ではミハイルを抱えたベロニカ(r2p007283)が置き去りにした彼目掛けてあっかんべえを見せていた。
――風のように疾る?
いや、少女の求むるは風の速さじゃ話にならない。
(――貴方についていくのなら、貴方の傍に居ようっていうなら。
可愛いだけの――微風なんかじゃ足りないのよ!)
瞬く奇跡は星のように。切なる願いは世界を貫く光の速さを望んでいた!
ノヴィア(r2p006764)の耀星の檻は刹那の概念に干渉する因果変更の権能だ。
その場に存在する何よりも速くなる。その身を縛る全てから自由になる――乱暴な結論の押し付けはノヴィアに今、最高の速力を与えていた。
全てを振り捨て真っ直ぐ速く飛ぶ事のみに全力を傾けたノヴィアはベロニカを抱え、そのベロニカは超高速の世界の中で動けないミハイルを精密に捕まえた。
両腕を折られながらも持ち前の馬鹿力で注意を引いたノエルカも含め、三天使は三味一体を以って一瞬の勝負に勝利したのだ。
実に皮肉な話――誰も信じないアレクシスを助く者は無く、ミハイルは違った。
当のミハイルに「邪魔だから帰れ」と言われた三天使はそれでも、自らの力でその価値を証明し切ったのである!
こうなれば――話は早い。
一派がやるべき事等決まっている!
「いやぁ、流石ミハイルのダンナだ! 敗けて退くのも絵になりますねぇ!」
「正直、妬ける展開ですわね」
「ああ。我が主の為に……その野望阻み得る全てを消し去るのみ!」
エマヌエル・バイルケ(r2p006759)、ジーラ(r2p007391)、デプス(r2p006875)等、周囲で小競り合いをしていたミハイル派の面々がノヴィアの行く先の掃除に入る。
「しかし、この状況ならいよいよ熱も入ろうというもの」
「ダンナは普段は大概世話の要らない人ですからねェ」
「我が忠勇を示す好機なり!」
水を得た魚のように暴れる三人の一方で、ミハイルを抱えるベロニカは怯え竦んだ先程が嘘のような上機嫌だった。
「期せずして抱き合ってしまいましたわ! 役得ってヤツですわ!!!」
「……抱かれるよりゃあ……抱く方が趣味だけど……よ」
ベロニカの言葉にミハイルが呻く小声で悪趣味な冗談を言う。
「どっちでもおっけーですわ! おいおい相談は伺いますわね!」
「……少しは焦れよ」と力無い笑みを浮かべたミハイルは、
「……悪かった。助かったぜ」
自らの命脈を繋いだ格別の翼にそう告げた。
「……」
「……………」
前だけを見て飛翔するノヴィアは一瞬だけ答える言葉に詰まっていた。
鼻の奥が少しだけツンとして、伝えるべき言葉を選び損ねる。
――悪かった。助かったぜ
ミハイルはそう言ったが――彼の予定が崩れた大本の切っ掛けは何だったか。
言うまでも無い。
バルトロに圧倒された自分達を助けに来た所から全てがおかしくなっている。
ミハイルがミハイルのプランだけで進めたのなら、きっと天上世界は崩落した筈だと――ノヴィアは思う。
思うのだ。そして彼女の想いに事実は関係ない。
結局は、そういう事なのだ。ミハイルを手伝い、その夢を後押しする格好をして――自分達は彼の好機を潰してしまったのと思わずにはいられない。
夢を魅せてくれたのに。
ずっと、強かったのに。
ミハイルは――完璧に計画を実行したのに!
「……怒ってンのか……?」
「……………」
「……ああ、ざまあねえな。結局ですわちゃんの腕の中だ」
「それは! 大いに結構なのですけども!!!」
鼻息の荒いベロニカの一方で――ノヴィアは違う。
(……謝らないで。そんな事を言わないで……)
声にならない。真向かう風に飛ぶから――それが理由だから。声が出ない。
(懲りない姿を見せてよ。悪びれず、責めてくれたら一番いいのに)
たっぷりの時間の後に彼女がようやく選び取ったのは、彼女からすれば最悪の本当に可愛くない――何時もの自分のそれだった。
「……返してよね」
最悪だ。
「返して」
「……ああ」
「返してよ、絶対だから」
「ああ。言われなくても――」
――ミハイルは全てを分かっているのか、居ないのか。
「次か、その次か。いつか必ず宝冠を取って――
――ああ、そうだな。嫌って程、お前等に見せびらかしてやるからよ」
気付かれないように鼻を鳴らしたノヴィアに実に大それた安請け合いをしてみせた。
※アレクシスがミハイルを降すも、ミハイル派の介入によりミハイル及び一派が戦場から撤退を成功させました!

