熾天使マリアテレサ
「……ハア、ハァ……」
荒れた呼吸。
「ハァ、ハァ、ハ――」
それは凡そ――叡智と冷徹を身上とした至高の宝冠の発する気配ではない。
圧倒的な安全圏、己を脅かす者の最早無い――
攻略しかけの世界の居城にアレクシスは居た。
「はぁ……はぁ、はぁ……」
より厳密に表現するのなら戻って来たと言う方が適切だ。
己が権能の一つにて地上に分け身を限定顕現させていた彼は端末の撃滅と共に強制的に本体に戻されたのである。
分け身の出力は所詮主天使に毛が生えた程度。小さな力とまでは言えないが、熾天使のそれに比すれば余りにも限定的だ。
しかして、酷く消耗したアレクシスの姿が物語る通り、自身から切り離し、魂の一部を分けたそれが消失したのは確かに本体にさえ響く強烈なまでの痛打だった。
それは謂わば疑似的な死であった。
アレクシスはその感覚、感触に打ちひしがれ、恐怖さえ思い知っていた。
(おのれ、おのれおのれおのれおのれ……おのれ!
塵芥が……私に斯様なまでの屈辱を……!)
失われた力の大きさとそれ以上に傷付いたプライドにアレクシスは猛烈な怒りと憎悪の色を隠せない。
マリアテレサが十一番の食べ残しと侮った地上等で後れを取る等、如何な事情があってもアレクシスには許容出来る事実ではなく。
(かくなる上はもう一度、今度は本気で顕現して――
そうだ。真なる恐怖を知らしめて差し上げます。
我が神の軍団を以ってして絶対無慈悲なる審判を下すまで……!)
それはアレクシスらしからぬ短絡的な思考だったと言える。
強烈に湧き上がる復讐心は衝動の侭に、地上のその全てを向いていた。
アレクシス・アハスヴェールの生において痛烈な敗北は初めての出来事だったから。
――だが。
「おやおや」
アレクシスにとっての不幸、そして人類にとっての幸福は全く予想外の人物からもたらされた。
「随分と無様な有様だこと。まるで雨に濡れた溝鼠みたいな有様ですね」
「……マリアテレサ……!」
嘲り笑うその声にアレクシスが鋭い視線を向ければそこには声の主、至高のマリアテレサとその侍従たるカイロスが立っていた。
(……私は出力制限を守った筈。
嗅ぎ回っていたカイロスもゲラントが抑えていた以上は、この来訪は……)
アレクシスは現れた災厄に表情を顰めたが、表情に出たのはその僅か一瞬だった。
失った力とダメージを小権能ですぐに完全偽装した彼は何時もの余裕と皮肉たっぷりの表情を作り直して来客に向き直る。
「突然のお出でで驚きましたよ。伝えて頂ければ迎えと遣いを出したものを。
申し訳ありませんが、お茶の準備には時間が掛かりますよ。
貴女のこだわりは重々に承知しておりますからね」
楽園では粗相をしたメイドの楽園らしからぬ処断が話題になった事がある。
しかし、アレクシスのおためごかしをマリアテレサは素気無く切り捨てた。
「どうぞお構いなく。
お茶を頂きに来た訳ではないし――何よりすぐに用は済みますから」
「ほう? では、頑なに楽園をお離れにならないお嬢様がこんな場末に何の御用で」
「分かりませんか?」
問いに問いを返したマリアテレサにアレクシスは内心で臍を噛んだ。
事これに到れば希望的観測に縋るのも馬鹿馬鹿しい話であった。
(……どのタイミングか、どうしてかは知れないが……露見しましたね。
私にミスは無かった筈。ならば、何かのイレギュラーか。
……それとも……マリアテレサの気まぐれか……?)
主人の言葉を邪魔する事無く控えるカイロスからも情報は読み取れなかった。
しかし何れにせよマリアテレサが供を連れてこの場を訪れた以上は剣呑な状況は避けられまい。
(ゲラントは……いえ。ここは私のホームだ。
……そうか、我ながら胡乱な。ダメージに少し冷静さを欠いていましたね。
この城で私が一人という事自体が、まず有り得ない状況ではありませんか)
思考する程に冴え渡るのはまさにアレクシスの叡智の力であった。
彼は直感すると同時に分割された思考と処理能力で周辺の走査を済ませていた。
マリアテレサとカイロス、どちらの仕業のものかは知れないが周囲には特殊な結界のような力が働いていた。
(……少なくとも数的優位を作る心算ですか?)
「二対一、何てくだらない事は考えておりませんよ。アレクシス・アハスヴェール」
アレクシスの眉がぴくりと動く。
「僕がここに来たのは貴方に罰を与える為ですが、僕が貴方程度を懲罰するのにどうしてカイロス如きが必要でしょう。
だって貴方は地上の人類に負けて――おめおめと逃げ帰ってきたのでしょう?」
薄笑いを浮かべたマリアテレサにアレクシスの怒りが再燃した。
――バルタザールは失陥しましたよ。全く、下らぬ後始末をさせてくれたものです。
熾天さえも軽侮するマリアテレサの口調と態度は何時か彼女が踏み抜いたアレクシス無自覚の地雷の再現に他ならない。
あの日、あの時から――取り分け強くなったマリアテレサへの強烈な反感と憎悪が噴出せずにはいられない。
アレクシス・アハスヴェールは紛れも無く至高の天使だ。
警戒を重ねて今に到ったものの、自身はその力を疑って等居ない。
ならば是非も無し。
「その放言――ただで済むと思わない事ですね」
状況といい、緊迫といい、激突が不可避ならばアレクシスの為すべきは簡単だった。
ここで決着を付けるまで!
マリアテレサ相手に出し惜しむ等愚の骨頂だ。
そして地上の敗北で多少のダメージこそ受けたものの、アレクシスには対マリアテレサの切り札とも言える秘儀が存在していた。
(これは知らないでしょうね。貴女の計算の外でしょうね、マリアテレサ!)
……まだ芸を持っているのかと苦笑いする事勿れ。
かつてバルタザールに小手先と笑われた彼の持ち味は究極に突き詰められている。
即ち彼がこの危急に頼むのは苦心惨憺の末に完成した対熾天使権能だ。
用途を対熾天使戦に限定する強烈な制約を加える事で劇的な出力と特攻を付与した改造権能。
言うまでも無く十一の熾天使の中でも斯様な技巧に到る者はアレクシス以外には無く。本戦に向けて編み出し、不意の一撃で確実に殺る為に用意された切り札はアレクシスだから出来る、まさにアレクシスらしい最強最大の手管であった。
(多少、時期と順序が変わっただけ――)
まるで「先手をどうぞ」とでも言わんばかりに微笑むマリアテレサにアレクシスは全力全開、まさに熾天使の権能を叩きつけた!
――『戴冠の刻、傲慢を打つ神罰なり』!
アレクシスより射出された夥しい数の光帯は並び立つ者を赦さない彼の神意そのものだ。
それはまさに超絶技巧による熾天使権能を超える奇跡の現出。
掠りでもすれば熾天使の構成要素そのものに打撃を与え、打ち崩す筈のその重い呪いの大魔術は――
「――――は?」
あろう事か。
あろう事か――マリアテレサの法衣さえも乱さない。
完全な直撃をしたのに。マリアテレサは一歩たりとも動いていないのに。
その透き通るような白い肌に毛先程の傷を与える事も叶わなかった。
「名乗りたがりの貴方に僕も権能の名を教えてあげましょう。
これは最も美しく、最も誇らしい、お父様と僕を繋ぐ絶対の力です。
ふふ、感謝なさい。光栄に思いなさい?
本戦を前に貴方だけがこの尊い力を知れたのですから」
その名は。
「権能『永遠に光あれかし我が愛の娘』。
まあ……この力の本質は、貴方程度ではまるで理解が及ばない域でしょうけど」
よりによって分析と理解を最上とする叡智の熾天使にそう告げる。
半眼でせせら笑うその美貌が吐き気すら催す程に神々しい。
「ああ……」
「馬鹿、な……」
カイロスはマリアテレサの立ち姿に法悦し、絶句したアレクシスはそれ以上の言葉も無く愕然とするだけ。
「アレクシス・アハスヴェール」
冷淡で美しい声が響く。
鈴鳴る銀の音色が鼓膜を甘やかに揺さぶった。
「僕がどうして怒っているか――
何故貴方を罰しなければならないのか――その、理解をしていますか?」
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