潮騒の向こうから
「お砂糖はいくつ?」
「――それじゃあ、二つ」
ブーゲンビリアが包むガゼボ。
柔らかな潮風が、しららかなティーカップを撫でていく。
数字を答えた天使トレサリスの瞳が、じっと天使イェラキの蒼を見つめた。
「……しょうがないこ」
手を伸ばせばシュガーポットがそこに在るのに。「やってほしいの」というおねだりに、イェラキは小さく笑みながらシュガートングをその手に取った。ひとつ、ふたつ。
房総半島――かつてそう呼ばれていた土地の殆どは海の底に沈んでしまった。
美しき碧の広がるこの海は旧時代には確かな人類の営みが繰り広げられた場所に在る。
残った土地と呼び得るものはそう多くはない。そして、その土地の一つがこの止まり木だ。
海を移動する小さな島、そこは海で生きる天使達にとって羽を休めることのできる楽園とも言えるだろう。
もちろん、この島を拠点にしない天使だっている。例えば、クラーケンを海の化身などと評する彼だとか。
「トレサリス、無事でよかった。君の望むものは得られたかい?」
「えぇ、マシロ市の能力者はたいしたものね。
アレクシス・アハスヴェールの軍勢をはね除けたって話も、あながち嘘ではなさそうよ」
銀色のスプーンで紅茶の水面を混ぜながら、トレサリスは答えた。テーブルに置かれたオーロラ色の貝殻は、彼女がイェラキが喜ぶと思って持ってきたもので。
「そうだね、でも一人一人の実力はまだそこまでじゃない。
沢山の奇跡みたいな出来事と、特別な事情があったんじゃないかな」
人類は弱い――個としてみればイェラキもトレサリスも彼らを殺すことだって容易いはずだった。
「厄介なのは数の利を生かした戦い方ね。バラバラの存在が結託して立ち向かうことができる」
「そうだね、それは人類の本質的な力だろう……そう簡単に団結できないのも人間なんだけど」
島の主へのお土産を手遊びのように眺め、イェラキは思案気なトレサリスに淡い苦笑を浮かべた。
「それに東京近海の海魔と光の領域も気がかりだ。シーゴーントだっけ、不思議な連中が光の領域を攻撃してたらしい」
それに関する情報はイェラキも良く知りはしない。ただ、何かの意図があることだけは確かのように思える。
「ともかく、これ以上マシロ市が力をつける前に海の底へ沈めてしまわないと」
トレサリスのしなやかな指先がティースプーンを置いた。揺れる水面の中には、角砂糖がすっかりと溶け沈んでしまって――それを見下ろす眼差しの、かすかな睫毛の震えに、イェラキはトレサリスの余裕と怒気のチークダンスを垣間見る。
「うん、彼らが力をつけて本格的に海に出るようになったら、私達の居場所だって奪われかねない」
「ところで、クラーケンが房総半島を沈めたって話は本当なの?」
顔を上げた頃にはトレサリスはすっかり取り繕っていた。鮮やかな紫で彩られた唇が、白いカップに口付けられる。
「そうだよ」
何かを思い出したように一瞬、イェラキが眉を顰める。
「もう20年以上も前になるのかな? あれは人類が横須賀基地を捨てて横浜に撤退しようってときに人類を襲ってた。
その前後かな。空腹を満たすみたいに……それか本能からか、横浜から三浦半島・房総半島の霊脈を貪り喰らった。
そのせいで、房総半島は海の底に沈んでしまったんだ」
地面を――さらにその向こうの海の底にきっとある旧時代の痕跡を見つめイェラキは一つ息を吐いた。
「あいつが目覚めたらきっと、まずは霊脈の要所にあった『精霊たちの島』――あの光の領域を目指すと思う。
あれだけのものが存在しているということは、中には相応に豊富なエネルギーが溜めこまれているはずだ」
「ということはあの領域……もっと言うとあの領域にあるエネルギーがクラーケンを動かす鍵になるわけね」
「うん、そういうことになるかな」
シフォンケーキの為の華奢なフォークを、イェラキは指でよじってくるりと回して。その切っ先が、ふわふわの生地にゆっくりと刺さっていくのをトレサリスは見つめた――そうすればイェラキの、凪の波のような声が続けられる。
「……あの光の領域にある力の大本が手に入れば、クラーケンを動かすことができる」
これがどういう意味だか分かる? ――イェラキの上目と、こてりと傾げられた首は、言外にそう問うている。
「クラーケンを人類の方向へと誘導できる――」
「そう」
血のような真っ赤なジャムが乗った、甘いふわふわを頬張って。海の魔女は目を細める。
人類に滅びを――トレサリスの胸の内に燻る熱は常にそれである。
「イェラキ、貴女は光の領域の力がほしいのね」
「うん、あの力があれば、私はペルチスカを更に強化することができる筈だ。
上手く使えばクラーケンだって使えるかもしれないけど、あの力がほしいことには変わりないよ」
「あの領域の力が手に入ればクラーケンを動かして私は人類への武器に出来る。
貴女はこの止まり木を強化できる……これ以上マシロ市が力をつける前に、あの領域を奪いとるのよ」
「……そうだね。うん、そうかもしれない。あれが本格的に目覚める前に、あの領域の力を奪い取ろう。
そうすればこの島を――私達の居場所を守ることができる」
終始穏やかであった茶会のホストは、その一言に明確に意志を込めていた。
その熱を肯うように、トレサリスはくすくすと笑う。
「それならお互い、部下を集めて光の領域へ向かいましょう」
「ふふ、そうだね。じゃあ、出航と行こうか」
このお茶会が終わったら、と付け加えて。「ええそうね」とトレサリスもフォークを手に取った。
魔女の唇が、お砂糖の溶けた紅茶を飲んでいく。
魔女の指が、ケーキをフォークで切り崩していく。
ブーゲンビリアが揺れている。
飲み干して、食べ尽くして。そうして最後に笑うのは、わたしたち。

