ソムニウムの住人


 これは到達地帯の話である。
 緑生い茂る地区。旧町田市街の面影を感じさせるその場所から更に進めば、風景は一変してゆく。
 多摩丘陵の北端を占める多摩市はベッドタウンとして開発された憩いの場所でもあっただろう。
 ――だが、その面影は今はない。
 機械仕掛けの街並みは廃油のかおりがした。蒸気溢れる空は暗鬱としており本来の天気など知る由もない。
 毒に塗れているかのように肺の奥深くを侵食する排煙に溢れる鉄と歯車の街並みを一人の男が歩いている。
「随分と、様変わりしたというべきでしょうか。
 いえ、元から世界はこんな有様だ。一介の魔術師があれだこれだと語るような場所ではないことも確か、か」
 ぽつねんと呟いた男はに佇んでいるにしてはやけに軽装であった。清潔を保った白衣に、スクラブといった、戦闘には適することのない医者を表す記号のような服装をし、その口元を黒いマスクで覆っている。
 そのような装いの男を見て誰が彼を魔術師だと形容しようか。そもそも、彼は一介の魔術師ではあるがそれを自称するつもりはない。
 自認している立ち位置と言えば、精神科医だろう。ただの闇医者だ。
 誰にも認められることはなく、ひっそりと。マシロ市にほど近い場所でありながらの向こう側に居を有するただの人間である。
「ノエ先生、こんな場所で無防備にするものじゃないわ。何処で何が狙っているかも分からないでしょう?」
「心配してくれるんですか? シェナ」
 ゆっくりと振り返った男に対してシェナと呼ばれた女は「勿論。あんたは私たちのだもの」と唇に笑みを含む。
「リーダー、という言葉はあまり好ましくはないのですが、まあ仕方がないか。
 ……町田で遊びまわっていたサーカス団はどうやら、移動を開始したようですね?」
「そうね。の阿保面もそれに協調している気がする。
 中央こっちにちょっかいをかけてくるつもりではなさそうだけれど。きっと、狙いは――あいつら……マシロ市でしょう」
 不機嫌そうな顔をしたシェナにノエは「何か不機嫌そうですね」と揶揄うように笑って見せた。
「不機嫌よ。勿論。だって、それは私たち中央街政府レジスタンスが対した敵じゃないってことでしょう?
 別に強大な敵を屠る英雄マシロ市のレイヴンズと同格のつもりなんかない。ただ、そう、侮られてばっかりじゃ腹が立つだけ」
 苛立った様子で告げた女は諜報員として様々な情報を手にしていた。
 その一つが、人類にとっての最後の砦たる――彼女たちにとっては近くて遠い隣人――が第五熾天使に打ち勝ったという事だ。
 そして、もう一つが自身らが近年小競り合いをしていた敵対勢力に対して、マシロ市が相対するサーカス団がコンタクトを取ったという事。
 サーカス団は愉快犯的に遊びまわっている。それもこれも、東京方面を拠点にしているという塩化領域の主眩金の少女に笑顔を与えるためだと言う、が――実態が分からない奇妙な一団としてシェナたちは構えていたか。
「サーカス団がにコンタクトを取ったという事は……海の怪物が動き始めたという事ですか」
「そう見るべきなんじゃないかしら。その辺りの調査も進めてみるべきね。
 ……私にとってはあまりそちらは重要ではないんだけれど。
 だって、マシロよ? マシロ市!
 もしもマシロ市の能力者達が此処までやって来ての管理を共にしてくれるなら……きっと、安泰だもの。
 少し楽しみなのよ。天使バカに侮られていることは腹が立つけれど、彼らと会うのは! ふふ、きっと面白いわよ。
 なんてお話しすればいい? 初めまして、梧桐ごとう 紫恵那しえなです、とか。楽しみね、とっても」
 頬を赤くし、愉しげに笑ったシェナはその見た目よりも少々幼い少女のように振舞って見せた。
 楽しみ、その言葉にノエも同意する。
 きっと彼らが来てくれたならば自身らが抱える様々な問題への協力者になってくれるはずなのだから――
「ところで、寒くはありませんか」
 露出度の高いナース服を身に纏っていた女はじっと傍らの男を見てから「全然」と笑った。
「暑がりなの。知っているでしょ? それじゃ、私はもう少し調査に行ってくるわ。
 ……先生、くれぐれも安全地帯へ。本当はこんななんかに出てきてほしくはないんだから。
 私たちは、なんとしてでも生き残らなくっちゃならないの。何があったって、どうしたって」
「分かっていますよ、シェナ。あなたもどうか気を付けて――」


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