誰が其れに気付けようか。
誰が其れに触れえようか。
少なくとも地上に存在せし人類は誰一人と
其れを知らぬ。知覚しえぬ。
……或いは。もし知覚してしまったなら絶望か狂乱の二文字が生じえていた事だろう。
其れは本来
この場にはいない。
いてはならぬ筈の存在であるのだから。
「あぁ、この地は塵で溢れている。なんと見るに堪えない世界の有り様でしょう。
よくもまぁ今の今まで生き残っていたもの……
大地が悲鳴を挙げている。脚が折れ死にかけの体で放逐された駄馬のようだ。
悲惨極まる――斯様に追い詰め消え失せた
アレは残酷の化身であったのやもしれない」
零す吐息。
其れは実に気だるげかつ、仰々しく言の葉を紡いだ。
こんな場所で、こんな身で。息をする事すら苦痛であるかの如く。
狭苦しい。不快だ。いっそ
ご破算覚悟で全てを解き放てれば、どれ程気が晴れやかである事か。魂の奥底……暗き深淵に渦巻くあらゆる怨言は、しかし口にされる事はあれど実際に行動に移される事は無い。
積み重ねた石を自ら砕くほど愚かではないのだから。
「ヴァルトルーデ、いますね?」
「ハッ猊下。現在の状況は――」
「それは不要です。知っていますとも、
この辺り一帯を全て視ましたからね。
オベリスクの設置は順調のようですね」
「しかし幾つか破壊されてしまいました。
申し訳ございません。お預かりした
猊下の創造物を……」
「
根幹が害されていない限りは構いませんよ。フフ。元々は遥か昔、手慰みに生み出した程度のモノでしたが……存外にも使い道はあったようだ。他にも
幾つか持ってきてもいいかもしれません――が。それよりも
地ならしの方です。
此方の方は些か遅々であると言わざるを得ませんね。
地上に降ろしている面々の
位階を考慮した上でも、です」
「……言い様もない失態です。申し訳ございません」
其れは、傍に控えしヴァルトルーデと告げた天使の方を見向きもしない。
ただ見ている。己の座す周囲の情勢を。天使を。人を。
本来であれば千里をも遠望しうる神秘の眼をもってして。
規格外の威。尤も『本来であれば』であり、今は見る影もない事情がある、が。
それでも近辺で生じている事態は掌握し――その上で語っているのだ。
其れは見たのだから。人類は
見られてしまったのだから。
「おや、叱責している訳ではありませんよ。そも性急に進めよとは述べません。
事は慎重を要する。石橋など幾らでも叩いて結構。
石橋そのものが壊れ砕ける程がむしろ丁度良いと言えます。
しかし――物事は
効率的に進めるべきだというのもまた真理でしょう?
獣を狩るは獣が万全である時でなければならない、などという法は在りません」
「――遅ればせながら猊下の御心を解しました。
すぐに編成します」
ヴァルトルーデの主は時に難解な言い回しをする。
されどその言の葉に誤りはない。主の智謀と御業は己如きが及ぶものではないのだ。
主は既に見通されている――大望果たす為の一手を。ならば尖兵として動くのみ。主の示された指先に向かって邁進するのだ。
あぁ
この方の傍に在れる至大の幸福と共に。
「期待していますよ。では……始めましょう。
落日の停滞は終わりを迎え、一時の
平穏は最早消え失せるのだと。
愚昧共に教えて差し上げなさい」
恭しく一礼せしヴァルトルーデをやはり一瞥する事もなく。
其れは頬杖をつきながら、自らの幕下へと命を下そう。
暗き地にて……白き聖衣の端が揺れる。
マシロ市に現れた謎の少女が
どこぞへ帰還するとほぼ同時。
第五冠の熾天使――
アレクシス・アハスヴェールは地上に降臨したのだ。
いや、相反する話ではあるが、己が担当を制圧中のアレクシス・アハスヴェールはこの地上に居る訳がない。
だからこれは事実であって事実ではない。
少なくともこの策謀に今気付く者は居ない筈である――
「――愉しみですね、マリアテレサ」
零れた言葉に高揚が滲んだ事を自覚し、アレクシスは深く口角を持ち上げていた。
染みついた屈辱は必ずや濯がねばならぬ。
その為の
手法は練り上げた、設えた、仕上げ切った。
其れを未だ人は知らねども。いつか誰しもが痛感する事であろう。
この、かつてない極大の暴威が、すぐ傍で蜷局を巻いている事を!