『ロクちゃん』
「有り得ない」
目と耳が良過ぎるのは果たしてアレクシスにとって幸福な事実だっただろうか?
(――セントラル・テミスが崩れた!?)
その異常事態をもアレクシスは望む望まないに関わらず瞬時に知ってしまう。
目前の戦いに集中すべきこの瞬間にも世界に膨大に流れる情報の悉くが――アレクシスに流れ込んでしまう。
(守護に付けていたウィラも失陥したと……
おのれ……フェルエナもジルデも、フィフスもイザベルも、ブラムザップもウィラも!
どれもこれも何をしているのですか――地上の人間如きに!!!)
元より期待はしていないが、バルトロからの連絡も無い。
さすれば、より一層アレクシスは憤激の情を強める他は無かった。
繰り返すが、冷静を保つべき局面で。
改めるまでも無く、前提条件こそあれ自らの敵となった人類の目前で。
アレクシスの激情は彼の灰色の頭脳を邪魔するノイズでしかない。
(……まさかこうまで予定外が続くとは)
セントラル・テミスとは地上のオベリスクを統括する、いわば司令塔と言える力を宿していた。アレクシスが地上で隠密に動く策を支えるモノであったのだが……それだけではなくセントラル・テミスにはもう一つ、重要な保険となる力を宿していた。
それは――アレクシス本体との繋がりを補助する力である。
(この分け身――限定顕現は面倒な術式だ。本体と疑似的に切り離す必要があった。しかし)
結論から言えばセントラル・テミスさえ健在であったなら、いざと言う時熾天使の力を即座に降臨させる事も可能であったのだ。熾天使に至れば如何なる状況も容易く覆せる。撫でるように人類など滅ぼし得るだろう。
当然ながら熾天使の力を降ろせば即座にマリアテレサの天眼に感知される。
故にその手段はこれまでの計画の全てが無意味に帰す最悪の保険と言えようが。
「……おのれ……ッ!」
どうあれアレクシスは狡猾で現実的だった。敗北よりは屈辱の方こそを選ぶ。
「まぁ構いますまい……! あんなモノは元々使わないつもりだったのですから……!」
吐き捨てたアレクシスは何とか己の中で渦巻く激情を合理的に制御した。
言葉はあながちただの強がりではない。元より使うつもりなど毛頭無い、ただ……万が一、億が一にかけた保険に過ぎない。つまり、そんなものなくても、最初から――
「どうした。またも顔色が悪くなったな――!」
――瞬間。アレクシスの思考の間隙を、九頭龍大神は見事に突いた。
人を見定める裁定者あらんとした蛇は眼前の天使を悪と断じ、排斥する為に総力を尽くすばかり。
「畜生が……誰を相手にしていると思っているのですか?」
「さて、な。さしずめ羽付の鳥畜生が相手かな?」
「……ッ、痴れ者が……!」
熾天使と土着の神の攻防は人智を越えた猛烈なものになっていた。
彼方全てを嘲笑う五番の宝冠。
此方人を愛し、人を憎み、それでも割り切れぬ超常の怪物。
「どうした自称神。真の神には及ばぬか?」
不敵に煽る九頭龍大神は、アレクシスにも容易くは押し切られぬ。
否。それだけでなくその毒牙が芯に届けば、例え相手が熾天使であろうとも痛打にも成るだろう――が。
「随分と暴れてくれましたねぇ――」
戦いの中でやがて酷薄な笑みを浮かべたアレクシスには確かな余裕が残されていた。
「だが、貴方の癇癪も終わりだ。
我が宝冠の真髄を知るがいい!」
状況は、ある瞬間を境目に一変する。
アレクシスの放つ断罪の神矢群――最早、一本一本が極大の槍を成す超魔術――が、九頭龍大神の身を容易く抉り飛ばし始めたのだ。その威力は激烈極まるも、正しくない。九頭龍大神が纏う神秘はこの出力のアレクシスに圧倒される程温くはない。抗する事は叶っていた。その筈が――いきなり防御する事すら出来なくなったのである。
(……これは、一体……!?)
九頭龍大神は態勢を立て直す事すら叶わず、一方的に押し込まれ始めていた。
ソドムゴモラの雷撃が落ちればやはり肉は容易く抉れ、神秘の鱗は露に弾ける。
それは最早戦いではなく一方的な暴虐、殺戮に到る嵐の形を成していた。
これは……いや、これが、これこそが……!
「『熾天の宝冠の解析能力』……!?」
「ロク――!」
見て分かる九頭龍大神の危機に、レイヴンズが援護せんと立ち回る。
それは迦陵羅・ルラ(r2p000241)や久慈宮 華月(r2p000151)達だ。素早く治癒術を行使し、死力を尽くしてロクを癒さんと試みる。
「はは、ハハハハハハハハ――!」
しかし……響き渡るのはアレクシスの哄笑。
それは全く、ひしゃくで浸水した船から水を掻き出そうとする無駄だった。
最早治癒が意味を成さない程の恐ろしい勢いで、命が削られていく。
今の彼は大雨の雫に蕩ける、水面上の柔紙と変わらない。
その程度まで貶められている。
「ぐぅぅぅぅ――ッ!!」
血が溢れる。尋常ならざる断罪の矢は、一切の慈悲なく大蛇を嬲りて。
神気が零れ、宙に揺蕩う。
それは概念の破壊に他ならない。
瞬きが一つ迸る度に――九頭龍大神という現象が削り落とされている。
「――憐れですねぇ」
失笑を浮かべたアレクシスはレイヴンズの援護さえ軽くあしらいながら軽侮の色を強めていた。
「人が愚かであると知りながら、何故私の邪魔を?」
瞬間。アレクシスの目は目前の愚物の過去を追う。
「ほう、成程……天使侵攻の折に、随分な世界を目撃したようですねぇ?
人は愚かである……卑劣にして浅ましい。斯様に紡がれた歴史を見てきた当事者。
フ、ハハハ――取り零したくなかった切なる命を失った、という程度ではない。悪意と横暴、酷使の果てに使い潰されたとは! 貴方は痛感したはずだ。人など碌でもないと。人など滅びるべきであると!
――それなのに何故、私の邪魔をしたのです!?」
憐憫の色を、その貌に浮かべながら……嬲る大蛇を睥睨している。
アレクシスは見た。ロクの過去を、ロクが抱いている感情の根源を。
権能『泡沫の因果視』は、過去視である。強き感情の発露に呼応し、手繰り寄せ己が知識と成す。『森羅万象の理よ、我が手中たれ』の解析補助に役立つ権能が一つであった。
「さぁ折角です、滅びる前に応えなさい。
放っておけば人など……築き上げたものも含めて万象、私が平らにして差し上げたというのに。そうすれば貴方の手間も省けたでしょう。それとも、あぁ……人にもう一度期待でも寄せましたか?」
「…………神は約束を違わぬものだ。貴様になら尚更納得出来る話だと思うがな?」
「成る程、契約ですか。然り、正論です。
しかし――なんとも無計画に結んでしまったものですねぇ?」
――ただ一度、身命をとして九頭龍大神に願い出る。
この戦いに挑む者達に九頭龍大神の加護を!
この大地を守るため、かの"悪"を打ち砕くために!!
『神祇の瞳』兎神 ウェネト(r2p000078)の願いの一声こそ現世、この瞬間における九頭龍大神の楔だった。
……あぁ、無論。それもある。約定は破らぬ、必ず果たすものだから。
だが――
「お前は」
もう一つ、あるのだ。
「お前は、月の美しさを真に理解しているか?」
「……はぁ?」
「我は最近ようやく思い出したぞ」
アレクシスは思わず、呆けた声を零した。
あぁ、他ならぬ彼にだけは分かるまい。
誰より優秀で、叡智に満ち、完璧な――彼にだけは分かり得まい。
だが……九頭龍大神にとっては重要な事だった。
この世がどんな汚濁に塗れていると知ろうとも、煌々と輝く月の明かりは変わらない。
……そうだろう。桂里奈よ、鈴木よ。
第五熾天使は人の悪性を嫌悪し、全て塵芥と嘲笑した。
九頭龍大神は人の悪性を憎悪し、一切合切鏖殺せんと心に定めた。
双方ともに悪を起点とした信条があり――しかし一つだけ決定的に違う点がある!
「救えぬ我にも、罪はあったのだ……!
この身の非力を棚に上げ、運命に、人にのみ責を求めた……!
それは神たる我の振る舞いとして適切であったか?
多くの信仰を集めんとした――集めた我の正解であったか!」
九頭龍大神の心の奥底には人の善に対する期待と、切望がある。
九頭龍大神は――この善神は己を律し、罰するだけの高潔さを持ち得ていた。
第五熾天使のように、悉く悪しか在らぬと断じている訳ではない――!
――己以外の何もかもを愚鈍な蒙昧と信ずる傲慢さを肯定はしていない!
「譲らんぞ、第五熾天使……!」
だからこそ、此処に来た。
憎悪と言う暴力性から生まれ出でた外殻を、今こそ完全に脱ぎ捨てる。
蛇の象徴は新生ならば。あぁ――これも脱皮か。
――はてさて。終に悟りが如何に困難なるものか、ご理解いただけたでしょう?
厭世も諦観も悟りと救いにはかも遠く。
故に我等は説くのですよ。
此の世は神仏の望むよりは浅ましく、人が悪し様に言うよりは美しき哉と。
当然、ご存じのこととは思いますが――
(……やかましいわ糞坊主)
その時。小煩い、とうの彼方に消えた親友の声が何故か聞こえた。
不愉快だ。あぁ業腹にして実に不愉快である。だが――!
「我は――!」
最後の死力を振り絞る。己の身が襤褸の如く擦り切れようと。
高らかに宣言しよう。自らが何者であるかを、世界全てに。
「我は――九頭龍大神! 神無世にも揺蕩う神である!!
消えよ! 神の名を不遜にも謳う紛い物は――」
――疾くこの地より消え失せよ!!!
轟、と吹き上がった烈風がアレクシスの長い髪を大きく揺らした。
九頭龍大神は永き年月を揺蕩った、生ける神秘そのものだ。
『森羅万象の理よ、我が手中たれ』の解析が即座ではなく時間が掛かったのは、アレクシスの出力不足だけが理由ではない。九頭龍大神の培ってきた神秘の密度――子蛇になろうと生き抜いた、全ての時間に意味があったのだ。
糞坊主の説法。神祇の使いの献身。我が巫女の輝き……
情報が極大である程に時間が掛かる。
そして、勝利の方程式は前提条件の変化で時に弾き出された解を裏切る。
蛇の象徴は新生であればこそ、現代の光たる者達と接し、語り、己を取り戻し――今、更なる覚悟を越えた九頭龍大神――いや、ロクはアレクシスが一度導き出した解の埒外へと到り、その姿を変えていた!
事象が全知の天敵となったは、解析後に生じうる可能性と変動の化身であればこそ!
おおおおおおおおおお……!
「何、まさか……!!」
大咆哮。空を震わすと同時に、九頭龍大神は残る力全てでアレクシスに吶喊する。
奴の放つ裁きの魔術すら意に介さぬ。痛みなど、もう感じる事も出来ないが故に。
それでも進もう。もう二度と、大事なものを取りこぼさない為に。
……人よ。大地に生きる者どもよ
刹那。もう目も見えなくなりつつある九頭龍大神は、最後の言の葉を零す。
――覚えておけ。否、忘れるな。
我はいつでも、いつまでも、汝らを見ている。
汝らの先行きを祝福している。人の生を愛している。
そして――道を違え、誇りを忘れたなら頭から全て丸呑みしてやる。
忘れるな、人の子達。其れを、決して、忘れるな――
「――永く、善く、生きよ」
「ロク殿ォ!!」
ウェネトが叫ぶ。喉の奥底から――
直後、生じうるは神秘の奔流。九頭龍大神、その最後の神威が第五熾天使を、文字通り命を尽くして呑み込まんとする! ……或いはそれは。常に熾天使として完璧だったアレクシスにとって、今まで一度も露見しなかった、真の意味で想定の埒外にあった事実であったのかもしれない。先の魂が炸裂させた一撃のように。いずれにせよ――
「――貴様ァアアア!!」
アレクシスの身を護っていた防御障壁権能はかくて完全に砕け散り、激昂したアレクシスの身にも、蛇の牙たる傷を刻まれていた。
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――だが、それが限界。
それ以上はもう何も出来ぬ。観測さえ、叶わぬ。
(まぁ……)
雲散霧消したロクの気配は最早漂う残滓に過ぎなかった。
(……まぁ。末期の映えとしては、悪くはなかろう)
もう何も聞こえぬ。何も見えぬ。
暗闇に沈む中、浮かびし最後の心地は……まぁ、悪くはないものだったが。
永く生き、時に暴神ともなった身で、斯様な最期を迎えられるとは。
未練が無いと言えば嘘にはなるが……僥倖だ。なればこの身に悔い等は……
「――ロクちゃん」
瞬間。
「ねぼすけさん」
「……?」
「ひどいよ。ロクちゃん、ずっと寝てばかりだったんだもん」
ロクは信じられぬモノを見た。信じられぬ声を聴いた。
見えない筈なのに。聞こえない筈なのに。
幻に非ざる声。少なくとも九頭龍大神にとっての真実。
あぁ。
「こんな所にいたのか、桂里奈」
あぁ……
「――おつかれさま、ロクちゃん。体、ちっちゃくなったね」
「初めて会った時のようだな」
「へびちゃん! 懐かしいな――あの時も、こーんな感じだったね」
「その不敬、承服しておらぬ」
「ふふ。へびちゃんでも、ロクちゃんはロクちゃんだよ」
幾つか言葉を交わした位で、ロクの在り様は遥かな追憶の影を帯びていた。
小さくなった影と影が重なれば、想いと幻想、過去と現実が交差する。
桂里奈は子供の頃のように小さなロクを振り回さない。
愛しさと優しさを湛えて、白い蛇体を優しくそっと手を差し伸べる。
「行こう、ロクちゃん」
「あぁ桂里奈」
ロクは桂里奈のその掌に頭を擦り付けるようにしてから彼女の手に乗る。
ああ、やはり。未練はない。悔いも無い。
永劫の今生の果て、辿り着けた場所の心地は……
かつての箱根町での『へびちゃんと巫女ちゃん』そのもので。
ただただ――彼はこの終わりに満足だった。
※九頭龍大神がアレクシスに死力を振り絞り攻勢を仕掛け……消失しました――!

